桑久保徹「A Calendar for Painters without Time Sense.12/12」@茅ヶ崎市美術館 感想

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2021年、最初の展覧会。
桑久保徹「A Calendar for Painters without Time Sense.12/12」@茅ヶ崎市美術館の感想です。

2020年の展覧会の振り返りが全く終わってないのにアレですが、感情の高まりをきちんと残しておくために先にこちらから感想を書きたいと思います。

美術手帖の特集で知った「カレンダーシリーズ」。
前回の展示である2018年も非常に素晴らしく、強く印象に残っています。
私がしっかりと展覧会の記録を残そうと思ったきっかけでもあるんですよね。

▼興奮気味に書いた当時の記事。
そんな思い入れのある作品がついに完結したということで、密を避けてパッと行ってきました。

平日の昼過ぎに伺ったこともあり、ほぼ全てのタイミングで空間を独り占め状態。
大きな作品を全身でじっくり堪能しながら、人間の思考はこんなにも軽やかに時代や空間を越えることができるのだという感覚を久しぶりに味わうことができました。

図録から考える美学的なあれこれ

図録には美術手帖で連載されていた制作中のエピソードに加えて、2018年以後の作品の制作エピソード、対談や解説が盛り込まれています。
西洋美術の伝統的な議論との関連性など、この値段で本当にいいんでしょうか?というくらいの読み応え。


ご本人の対談では日本の西洋美術受容の歴史(例:ゴッホがいかにして日本で熱狂的人気を誇る画家となったのか)が対比として上がっていた部分が印象に残りました。

その箇所を読んだ上で改めて考えてみると、シリーズを通して提示されているのは、単に西洋と日本の対比や受容に留まらず、連綿と続く人類の時間軸と営みの中に桑久保氏も鑑賞者も在る、ということではないかなと。

そしてこのシリーズの枠組みそのものが、本来区切りがつけられない時間を区切る役割を持つカレンダーである、というのが本当に面白いですよね。
図録に掲載されている茅ヶ崎美術館艦長の解説での「時祷書」への言及も、確かにそうだな!と思いました。
まさか時祷書と名画カレンダーがこんなところで繋がるとは。
絵画と暦には早い時代から比較的現代まで、密接な関係があったんですよね。

また対談の中で触れられたいわゆる「オリジナル/コピー」問題も非常に考えさせられました。

絵画そのもの=ペインティング
絵画そのものを元にした画像やグッズなど=ピクチャー

という位置付けになるほどなあと思いながら読んでいるうちにふと思ったのですが、絵画経験(ペインティングを実際に観る)際に、ピクチャに全く触れずに経験することって、実はとても難しいんじゃないでしょうか。

ペインティングを見に行く前に必ず告知としてのあれこれを見ると思うのですが、それって全てピクチャなんですよね。
ピクチャが提示するこんな感じのものがありますよ〜という情報なしにペインティングに出会うことって、そうそうないんじゃないかなと。

まあその辺りはルーベンスのように複製版画として作品を流通させたことで名声が広まった画家もいるので、現代に限った話でもなく。

そもそもいわゆる芸術論の始まりの話が、プラトンが絵画や詞をミメーシス(mimeshis:模倣)と批判的に位置付けたこと、一方でアリストテレスはこれを肯定的に捉え直した、という、外界と制作物および芸術家の立ち位置・役割の話なのですよね。

あとぼやっと考えたのは「観賞後に脳内に蓄積されているものは結局ピクチャなのではないか」問題。

画家が外界から目を使ってインストールしたものを技と思想を持ってアウトプットしたものがペインティング、と置いてみます。

私たち鑑賞者はペインティングをインストールする、つまり画家というフィルターを通した外界を受容している訳ですが、そこからの解釈には鑑賞者によるばらつきがでてきます。

その理由は、解釈という行為の中に芸術家伝説や事前/事後に見たピクチャが入ってくる、さらに個々のこれまでに生きてきた経験や興味関心にも差異があるからのではないかなと。

このばらつきこそが知的好奇心をくすぐるというか、人はそれぞれ違う生き物であるというのがよく分かって面白いなあと個人的には思いますが、じゃあ作者の本意って一体何に宿るのだろう?という堂々巡りに陥ってしまいました。

こういうことをつらつら考えるのが好きなのですが、思考の壁にぶち当たるたびにやっぱりもう少し大学で真面目に美学を頑張ればよかったなあ……と後悔しています。

さて、「解釈にはどうしても生まれてくる差異がある」を踏まえた上でもう一度カレンダーシリーズに戻ります。

ある画家の残したペインティングを起点に、画家の目と技と思想、そして画家の先に広がる「画家が眼差した外界」を別の画家が解釈し再構築した…というのが、このシリーズの奥行きの深さなのだと思います。

図録の中ではご本人が写経と表現されていて、なるほどなと思いましたね。
他のインタビューや手記、評論などを読むと演劇的アプローチという文言が出てくるのも興味深いです。

個人的なペインティングの受容体験の話

というわけでここからは個人的なペインティングの受容体験の話を。

カレンダーシリーズと最初に対峙してからちょうど3年が経ちます。

この3年間で心身の不調に陥ったり職が変わったりと私生活で色々あったのですが、大学で学んでいたことを忘れたくないという想いから意識的に美術館に足を運んでいました。

ピエール・ボナール国立新美術館で初めてじっくり観たけど青の使い方が独特でよかったな、セザンヌは学生時代はどう捉えていいかわからなかったけどこの3年間でいろんな作品を観るうちにすっかり好きになったんだよな、とか、そういう個人的な受容体験がぶわっと蘇ってきて。

馴染みのあったゴッホムンクだけでなく、できる限りさまざまな画家の作品に触れてきたことで、やっぱり3年前の自分と今ここにいる自分は、同じだけど変化した別の存在でもあるのだ、ということを強く実感しました。

そういう思い出がひと段落した後に頭によぎったのは、じゃあそれぞれの画家の「らしさ」の根源はどこにあるのか、という疑問。

ムンクムンクたらしめるもの、ゴッホらしい筆致や色彩ってなんだろう。
構図?モティーフの選定?やっぱりいわゆる生き様ってやつだろうか?

そんな「らしさ」を考えているうちに、それぞれの画家の世界の捉え方、カレンダーシリーズ画中画の外の空間が気になってくる。
世界と自分の関係の捉え方、在りたい姿、表現の取っ掛かり、そういうものが見え隠れするような気がする。

ティーフを調達するセザンヌ

セザンヌの世界は、まるで透明な竜のようなセント=ヴィクトワール山が支配しているようにも見える。
故郷以外の場所に暮らしていた時期も、彼の意識下でずっと眠っていたのかもしれない。
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《サント=ヴィクトワール山》1904-06年、デトロイト美術館(デトロイト美術館展にて撮影)

そういえばカレンダーシリーズの中で、かの有名な《りんごとオレンジ》りんごやオレンジが今時のスーパーの袋に入れられており、しかも(確か)プロヴァンスマートと書かれていたのにはちょっと笑ってしまった。
とはいえモティーフを日常的に調達する、買い物に行くセザンヌという存在は世界のある時期に確かに在ったんだよな、と思ったり。

▼こちらだと見にくいのですが件の袋があるのは画面の左下あたりです。

ゴッホの書簡、世界との距離感

やっぱりゴッホの星空には相変わらず胸を締め付けられる。
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桑久保徹《フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホのスタジオ》、2015(※2018年の展覧会にて撮影)

彼岸に煌めく夜景や天の星との、届きそうで届かない距離感がなんとも切ないな、とつい思ってしまうのは、私自身が彼の書簡を一時期読み込んでいたからだろうか。
どうも贔屓目というか、肩入れしてしまう自分がいる。

(中略)地図の上で町や村をあらわす黒い点がぼくを夢想させるのと同様にただ星を見ていると、ぼくはわけもなく夢想するのだ。
なぜ蒼穹に光り輝くあの点が、フランスの地図の黒い点より近づきにくいのだろうか、ぼくはそう思う。
汽車に乗ってタラスコンやルーアンに行けるのなら、死に乗ってどこかの星へいけるはずだ。
この推論で絶対に間違いのないことは、死んでしまえば汽車に乗れないのと同様に生きている限りは、星に行けないということだ。(書簡506、1888年7月以降)

希望を或る星によって表現すること。生あるものの烈しさを夕陽の光線によって表現すること。もとよりそこには写実的な写実はないが、それこそ実際に存在するものではなかろうか。(書簡531、1888年)

届かない、と彼が思ってしまった光を再現しているように、アトリエは黄色い。
ゴッホが準備した黄色い家ももしかしたらそんな感覚だったのかもしれない。

ムンクゴッホの魂の近さ

ムンクの月柱から連想するのは、溶け合いたいと思えるほどの強さで向けられる愛。
彼岸に輝く極夜のエメラルド色の光と、奥底で昏く燃える赤。

この昏い赤で思い出したのはムンク展で出会った《吸血鬼》という作品。

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《吸血鬼》1895年、油彩・カンバス、ムンク美術館

展覧会を観た当時も印象に残った、血管のように広がる赤い髪と、さまざまな愛の形のことを考える。

外界が明るければ明るいほど、内側で燃えるものが浮かび上がってくるような、そんな色味の関係。
ゴッホにとっての青と黄色の関係と、通じるものがあるような気もする。
やっぱりこの2人は興味関心、精神、魂が似ているんじゃないかな。

ピエール・ボナールとアーモンドの花

ピエール・ボナールが居るのはきっと南仏の、遠くに海を望む高台の花園の中。
彼が描く花は生き生きとしているけれど、手触りがあるようなないような、まるで夢の中のような雰囲気もある。

断ち切られた空間の果てにさりげなく咲いているのは、彼が最期に描いた花、アーモンドの花のようにも見える。
実際の作品と異なり、ちょっと枝振りが和テイストというか浮世絵ナイズされて見えるけど、アーモンドの花だったらいいな、と思う。
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《花咲くアーモンドの木》1946-47年、油彩・カンバス、オルセー美術館蔵(ポンピドゥー・センター、国立近代美術館寄託)

***

それにしても、ただの記号・絵の具の塊といえばそれまでなのに、こんなに心を揺さぶられるのは何故なんでしょうね。

知的好奇心と追憶を行ったり来たりしながら、我々は途方もない壮大な物語の中の一演者に過ぎないけれど、同じ物語の中でどこかで繋がっていられるというと思えば寂しくはないのかな、などと柄にもなく大きなことを考えてしまいました。