アンビバレントさを考える ゴッホ展@上野の森美術館 感想

今回のゴッホ展の感想で、2019年の展覧会感想はひと区切りつきそうです。

感想を後回しにしていると、本を読んだり別の展覧会に行ったりで、まとめる前にいろいろ繋がりに気づけるというメリットもあるのですが、やっぱり溜め込むと振り返りの量が酷いことになるので、来年は鮮度第一で行こうと思います。

という訳でゴッホ展の感想です。
10月に一度行ったあと、昨日12/29にもう一度見に行っています。
公式サイトは下記より。

また、今回の画像は注釈がないものは全て公式から引用しています。
なんか色味がイマイチだったので……

混雑状況

久々に混雑状況の話を。
上野の森美術館に関しては、動員多めの企画が多い割には建物が小さいので、いつ行ってももう混むのはしょうがないかなと思っています。
昨年のエッシャーフェルメールも結構並んだのでだいたい覚悟はできてます……

オンライン・上野公園の入口・JR上野駅内のカウンターのどれかでチケットを事前入手するのは必須です。
とはいえ割と美術館慣れしているというか、同じく覚悟を決めている人が多いのか、美術館のチケット売り場がめちゃくちゃ混んでる!みたいな状況は最近はあんまり見ないかなという印象です。
まあ2回並ぶのは普通に面倒なので、事前にチケット手配はしておいて損はないかと。
昨日はチケット手配済みの待機列が、12:30くらいの時点で入場まで40分待ちでした。

また昨日はたまたま暖かかったので良かったですが、待機列が結構な日陰になるので、防寒対策はしておいた方かなと思いました。

そして館内もめちゃくちゃ混むので荷物は小さくまとめるが吉ですね。
ゴッホ展公式Twitterを見ている限り、待機列はなくても中はめちゃくちゃ混んでたパターンも多そうです。
あと館内の構造上、いったん外に出てしまうと物販エリアには引き返せないので、お財布を忘れると悲しいことになります。

《じゃがいもを食べる人々》と版画


ファン・ゴッホ《じゃがいもを食べる人々》1885年4-5月、リトグラフ、ハーグ美術館

ゴッホがひとつの集大成として仕上げた意欲作《じゃがいもを食べる人々》の完成を周囲の人々に伝えるために作成した版画です。
しかし実際の作品と版画の出来には差があったこともあり、友人で画家のラッパルトはこの絵を批判しました。


ファン・ゴッホ《じゃがいもを食べる人々》1885年4月、油彩・カンヴァス、ゴッホ美術館
※展示なし、Web Gallery of Artより引用

絵画の方と見比べると、確かに版画は全体的に人物の表情は明瞭ではあるものの、シルエットはもったりしているように感じます。
ドラマティックな光の効果も失われていますね。

実は10月に観た時はこの作品と経緯について、かなりさらっと流してしまっていました。
ほーんまあそういうこともあるかな、くらいの感じでしたね。

ちょっと話が逸れますが、先日、成城大学の公開シンポジウム「ローマの誘惑」に行ってきました。

全部の話が非常に面白かったのですが、最も興味深かったのが幸福先生による「ふたりのヘンドリック ― ローマのオランダ版画家たち」でした。

これまで版画に関しては完全にノーマークだったのですが、版画は美術を広く伝えるメディアとして非常に重要な役割を果たしていたようです。

今日「名作」として知られている作品の多くは版画によってその評判が伝えられ、世間に広まっています。
版画の出来もその名声形成に関わっていますし、実際の作品とは異なり黒白の限られた表現の中で版画家達はどのように作品を再現したのかという観点もある、というのが、もうなんでいままで自分はこれをやらなかったんだ!?というくらい面白かったんですよね。
いやーやっぱり美術史って楽しいな、好きだなと改めて思いました。

会場の解説によると、ゴッホも自分の作品を版画にするために、版画工に制作を習っていたそうです。
やはり、この当時も版画は作品の出来を伝えるために必要な手段だったんでしょうね。
腕のいい版画家は売れっ子だった、みたいなこともあったと思います。
絵画や版画が持つ「伝達手段」「メディア」という性質は、これからも意識しておきたいところです。

ゴッホとモンティセリ


アドルフ・モンティセリ《陶器壺の花》1875-78年頃、油彩・板、個人像
※下記記事より画像を引用しています。
【ゴッホ展この1点】(4)アドルフ・モンティセリ「陶器壺の花」1875-78年頃 色彩のオーケストラ - 産経ニュース

度々書いてますが、モンティセリの色彩感覚は本当に素晴らしいですね。
澄みきった色ではないのに、パッと目を引く鮮やかさがあり、ちょっとゴブラン織に似ている気もします。

モンティセリは個人蔵のものが多いからなのか、なかなか観られる機会が少ない上に、極端に画像もグッズ展開もないのが本当にもったいないというか、非常に無念です。
ポストカードくらい欲しいんですけどねえ。
この独特の輝きは是非とも生で観て欲しいです。


ファン・ゴッホ《花瓶の花》1886年夏、油彩・カンヴァス、ハーグ美術館
Wikipediaフィンセント・ファン・ゴッホの作品一覧より引用

で、明らかにモンティセリにインスパイアされてるよね、というのがこちらの作品。
ただ、同じ華やかな花卉画でもまた印象が違います。
この画像も色味があまり再現されてなく、ぜひ会場で比較してみて欲しいのですが、背景は同じ黒でも、モンティセリの絵肌はツルツルキラキラなのに対して、ゴッホの絵肌は少しマットなんですよね。
ゴッホの方は、まるで木目が透けた漆器のようです。
この塗りの着想はどこから来たのかは気になるところです。
ゴッホが本当に漆器を見てたりしたらすごく面白いとは思うのですが、どうなんですかね。

ゴッホアンビバレントさを考える


ファン・ゴッホ《サン=レミの療養院の庭》1889年5月、油彩・カンヴァス、クレラー=ミュラー美術館

《糸杉》については、卒論で扱ったこともありもちろん思い入れが強いのですが、会場で最も衝撃を受けたのがこちらの作品。
赤、青、黄、緑、黒といった色彩が響き合い、眼前に迫ってくる様に圧倒されます。
実物はもっともっと鮮やかな色味です。

この鮮やかな色たちのバランスを取る色彩感覚や、奥へ奥へと誘うような構図の巧みさを思うと、ゴッホはものすごく絵に対してはどこかかなり理性的というか、決して感覚「だけ」で描いているわけではないよなあ、と改めて思います。

わたしはサン=レミ、オーヴェル=シュル=オーワーズ時代の作品がとりわけ好きなのですが、これまでその理由がいまいち言語化できていませんでした。

今回本腰を入れてその理由を考えてみたのですが、この時期のゴッホが精神を病んでなお、強い野心と理性を持って絵画と向き合ってたことが伝わってくるからではないかなと思っています。

ゴッホ自身の感情が大きくうねり、生と死に対して終始アンビバレントな思いを抱えながらも、絵に対しての感度や世界を見る眼差しが研ぎ澄まされ、他者からの影響を糧に「ゴッホとしての純度」がどんどん高まっていく様に、ベタな言い回しではありますが、人間としての強さを感じます。

この時期のゴッホの死生観は非常に興味深く、書簡の中で折に触れ、生と死について書き残しています。
とりわけ興味深いのは「汽車に乗ってタラスコンやルーアンに行けるなら、死に乗って何処かへ行けるはずだ」「死んだらば汽車に乗れないように、生きている限りは星にはいけないからね」という記述です。
星という輝かしいものと死を同一視している様子からは、どこか死というものに惹かれ夢想しているのではと推測できます。

一方、画家としてのゴッホの眼は、身の回りの植物から生命力を見出し、それに心奪われているんですよね。
《サン=レミの療養院の庭》では、草木の1本1本までもが躍動し、画面左の建物が相対的に弱々しく見えるくらいの強さで草木が持つ生命力が描き表されています。


ファン・ゴッホ《糸杉》1889年6月、油彩・カンヴァス、メトロポリタン美術館

《糸杉》もまた、渦が立ち昇るような「糸杉」のモティーフの描き方から、生命力に惹かれるゴッホの眼差しが伺えます。
糸杉の奥には重たい印象を与える黒と、立ち昇るエネルギーの対比が見事です。
また、糸杉の先端が断ち切られた構図になっていることで、わたしたちがこの糸杉の先端を想像するという余地が残されているのも面白いなと思います。


ファン・ゴッホ《薔薇》1890年5月、油彩・カンヴァス、ワシントン・ナショナル・ギャラリー

解説では「体調回復の喜び」といったことが書かれていたのですが、わたしは野の木々や草花の荒々しさとはまた違う、終わりをはらんだ生命力という印象を持ちました。

花瓶から溢れんばかりの薔薇や強い輪郭線を持って茂る葉から、この薔薇が確かに生きている様子が伺えます。
しかし《サン=レミの療養院の庭》と見比べると、どこか硬さを感じます。
描かれた当時と色味が異なるということを踏まえても、葉の鮮やかさに対する花びらの透き通るような繊細さがちょっと病的というか、美しい骨組みのようです。
葉はまだ生きているけれど、花の方は葉に先んじてゆっくりと死に向かっているように感じました。

これは妄想の域ですが、ゴッホという人物は、自分自身が死に惹かれれば惹かれるほど、画家としての眼差しは世界に満ち溢れる生の方に惹きつけられていたのではないかと思うんですよね。
その狭間でめちゃくちゃに苦しんだ一方で、その葛藤があったからこそ、画家としての眼が尋常じゃなく研ぎ澄まされた部分もあったんじゃないかなあと。

生と死という普遍的な問題について、自分の中に激しい矛盾を抱えながら、それでも描かずにはいられなかったゴッホだからこそ、現代のわたし達がその作品と対峙した時に、国も時代も超えて「生まれて死ぬ、同じ人間として」繋がることができる。
これが、ゴッホが現代に至るまで多くの人々の心を動かす理由なのではと思っています。