美術手帖の桑久保徹連載シリーズが面白い
久しぶりに美術絡みのことを。
以前書いた桑久保徹氏の個展「A Calendar for Painters Without Time Sense 1. 3. 4. 5. 7. 8」とその作品について、なんと作者の桑久保氏が1つずつ解説をする連載が美術手帖のwebサイトで始まりました。
美術史という大枠から見た、元になる画家の特異点がさらりと盛り込まれた上で、製作中の現実世界でのエピソードや「演劇的に」画家の眼差しに近づいていく過程が書かれていて興味深いです。
今日はちょうどスーラを取り上げた作品についての回が更新されていました。
ゴッホへの強い親しみ+α
やはり桑久保氏自身のゴッホへの強い親しみ、そしてゴーギャンやセザンヌとの差異への微妙な感情が前面に出た第3回が面白かったですね。
だって、絵のせいで、君は人生を生きてないんだから。
ゴッホの生き方を普通からはみ出したアウトサイダーではなく人生を生きていないとさくっとまとめたところにしびれました。分かりやすくていいですね。
思い込みが激しいから、つい周りから疎まれてしまうけど、裏を返せば、その猛烈な思い込みによって、あれだけの傑作の数々を描けたのだよね。
作品に対する姿勢としては、やはりこの辺りがゴッホの真髄なのかなと思います。
以前自分で書いたもので言うところの頭の中で作り上げた“神話”を愛しひたすらにその姿を追いかけるという受容姿勢ですかね。
セザンヌの難しさ
セザンヌへの微妙な苦手意識(?)にはその前の第2回でも触れているので、読み比べるとさらに元になる画家のそれぞれの特異点が引き立つ形になっています。
私も実はちょっとセザンヌ、特に静物画のアンバランスさがなんとなく不安になるので難しい、なんかしっくりこない、という印象があったのですが、第2回の記述を読んで少し自分の中の理解が変わりました。
君は、世界を映し出すというそれ以前の絵画と、(中略)世界を真似しない、絵画そのものを構築するという発明によってパラダイム・シフトを起こした。ある一個人がそのキャンバス内で均衡の保たれた世界を作り出すという、神として存在できる発明……。
ポール・セザンヌ《りんごとオレンジのある静物》1885-90、オルセー美術館
この後さらにセザンヌの試みを個人が神としてイデアを生み出すような感じの美術と表現していて、あーなるほどそういうことかと。
カンバスの中のりんごは、りんごそのものではなく描かれたりんごとして自立するように仕向けられていたんですね!
乱暴にまとめるとやってることのレベルがめっちゃ高くてとっつきにくかったっていうところでしょうか。
ちょっと難解な印象の理由に近づけたような気がします。
セルフライナーノーツへの愛と現代美術
…もはやこの話だけで1つ記事が書けそう笑
私は美術に限らず音楽や漫画もなのですが、セルフライナーノーツを読むのが大好きです。
裏話的な楽しみももちろんですが、一方で少し悔しさや寂しさも感じます。
音楽系の部活にのめり込んでいた高校生の頃、もし力があれば作曲の道や演奏者への道を歩めていたかもしれないのに、みたいな、好きなのに直接的に関われないもどかしさを感じていました。
結局諦めきれず、学問として音楽を含めた芸術そのものを学ぶという形を選びましたが、創作できないコンプレックスはいまだに払拭しきれず、悔しさや寂しさに繋がっているのだと思います。
ですが一方で、作者や周囲の言説を調べるような作業をしているうちに、作品を生み出すクリエイターの苦しみそのものは分かり合えないけれど、苦しんでいたという事実は言説を通して分かち合えるんじゃないかと思うようになりました。
時々忘れがちなんですが、クリエイターも鑑賞者も同じ人間なんですよね。
今はセルフライナーノーツを読むと、色々な気づきがあって悔しくなる一方で人間違うところもあれば普遍的なところもあるという簡単なところにストンと落ち着くので、日頃のバイアスがかかった目線もいったんリセットされるような気がします。
現代美術はそこまでとっつきにくくないのでは問題については度々話題にしていますが、現代美術はセルフライナーノーツが読める可能性が高いという点はこれからもっと注目していきたいと思いました。
いわゆるファインアート的なものについて言説を調べようとすると、資料も膨大なのでいざ信頼できるものを探すとなると結構手間がかかって大変なんですよね(それも楽しいんですけども)。
一方で現代美術は、クリエイター自身がTwitterやwebサイトでセルフライナーノーツや日々のことを発信している率が高く、比較的情報を集めやすいし触れられる機会も多いのではないかと思います。
今まさに生まれているものである現代美術を掴むことはやはり難しいなとも思いますが、セルフライナーノーツを意識すると、一見難解な現代美術も、違うけれど同じ人間の営みであることが思い出せるため、少しハードルが下がるような気がします。