映画『世界で一番ゴッホを描いた男』技術、経済、そして模倣と芸術の境界線

新宿シネマカリテにて映画『世界で一番ゴッホを描いた男』を観てきました。

公式はこちら
原題はchina's van goghなんですね。


あらすじ

中国深セン市大芬(ダーフェン)は世界の複製画の6割近いシェアを担う「油画村」。
そこに出稼ぎでやってきた趙小勇(チャオ・シャオヨン)は20年もの間ゴッホの複製画を描き続けているが、いまだ本物のゴッホの作品を観たことがない。
アムステルダムへの渡航費をなんとか工面し、家族への説得の末、ついに小勇と一行はゴッホ美術館で本物のゴッホの作品と念願の対面を果たす。
旅は「夜のカフェテラス」、そしてゴッホとテオが眠るオーヴェル=シュル=オワーズへと続く。
帰国した小勇は、旅を経てある決意を胸に抱く。

技術、経済と芸術の境界線

あらすじはネットで検索すればいろいろ出てくるのですが、私は「ゴッホの本物の作品を観て彼は真の芸術に目覚める」的な結末にこのドキュメンタリーを簡単に押し込めるのは違うんじゃないかな?と感じています。

芸術学や美学の領域をほんの少しかじった者としては、「模倣画は真の芸術ではない」という意見には懐疑的です。
なぜなら、じゃあ「真の芸術」とは何なの?という話になってくるからです。

気軽に使われがちな「アート」という言葉の語源を紐解いていくと壮大な芸術の成立史の話になってしまうので、ある程度かいつまんでいきます。

そもそもアート(英:art)の語源のラテン語arsはギリシア語のtechnēに相当します。
technēは今日の英:technicや独:technikに当たる通り、「技術」を指します。
自然に対する人間がものを作る技術総てをひっくるめたものがarsです。

しかし18世紀以降、近世の新しい価値観として美を追求する「美しいart」という概念が登場します。
(仏:beaux-arts、英:fine arts)
これが現在私達が「芸術」「アート」として認識している文学、音楽、造形美術、演劇、舞踊、映画などの総称になります。

つまり広義のartには職人の技や手仕事も含まれており、今回で言うところのゴッホの絵画は狭義の「美しいart」に当たるというわけです。

※この話に日本語の「芸術」の受容歴史も加わると相当ややこしいので、詳しくは以下のページを参照してください。

芸術(げいじゅつ)とは - コトバンク
テクネー(てくねー)とは - コトバンク
芸術と技術

あと恐らく佐々木健一『美学辞典』も本当は読まなければこういうことは語れないよなあ…と思っています。
ちゃんと大学時代に買っておけば良かったのに参考レベルだからと買うのをケチった自分を殴りたいですね。

美学辞典

美学辞典

長々と描きましたが要するに言いたいことは、小勇の技術の追求と美しさを求める芸術の境界線は、artの語源を紐解いていくと実はものすごく淡いものなのではないか?ということです。

また、経済活動と芸術の境界線も淡いものであることは作中でも度々触れられています。

ゴッホも絵が売れることを願っていた」
自らが模倣画で稼いでいることに対して、小勇は繰り返しこの言葉を語っていたように思います。

西洋の芸術史(音楽、絵画その他諸々)を俯瞰していくと、長らく作曲者や画家には王や貴族といった、お金を出すパトロンがいました。

芸術家は貧乏である、しかも美を求める上での清貧である的なイメージはそれこそゴッホのイメージが「芸術家のイメージ」にすり替わっているようにも感じます。

あくまで近世〜近代の芸術家にそういう人物が多かっただけで、ミケランジェロルーベンスハイドンやリストなど、割と生前に成功している芸術家は多いんですよね。
モネも初めは困窮しますが、後に印象派の画家の大家みたいな感じになりますし。
じゃなかったら首相を巻き込んで睡蓮の部屋という大作を実現できるわけがない。

実際にある「夜のカフェテラス」を小勇と一行が訪れた後、酷く泥酔した小勇は叫びます。
「カフェテラスの前で俺は素早く絵を描く。鮮やかさにもう1枚描いてくれとせがまれる」
「俺はゴッホだ!」

細かな台詞回しの再現ではないのですが、小勇の誇りと葛藤、そして後ろめたさのようなものが吐露されていくこの場面に胸がつまりました。
異国の裏通りを彷徨う高揚感も、次のカットではホテルで嘔吐する小勇が映されることによって、酒による無理をした虚勢であったことが残酷なまでに示されるのです。

模倣・ミメーシスという言葉と芸術論

この映画を観ている最中、私は大学で必修課題として取り組んだ「芸術とは何か」に応える課題を思い出していました。
このブログでも度々書いています。
例えばこの記事ですね。
イデア論、そしてニーチェの「超人を目指して飛ぶ憧れの矢」などを絡めて説明した記憶があります。
超・余談ですが『蜜蜂と遠雷』の実写映画化も発表されましたね!松岡茉優さんが出るとのことでとても楽しみにしています。

話を戻しまして、プラトンから連なる芸術論について分かりやすくまとまっていたこちらのページを引用します。
当時私が言いたかったことがさらに明確に、そしてハイデガーまで絡めて書かれていて、そうだよそれを言いたかったんだよ…という心境です。

ミメーシスとしての芸術:ハイデガーのニーチェ講義

プラトンの言うミメーシスとは、芸術にとどまらない。神による自然の現象の発現も、手工職人による制作も、画家の芸術活動もみな、イデアの模倣としてのミメーシスである。

ここですね。
「画家」ではなく「画工」であるところの小勇は手工職人です。
ですが直近で観てきた展覧会がルーベンス展だったこともあり、小勇の作品は近世〜現代の価値観に当てはめたときにのみ「狭義の芸術に当てはまらない」だけに過ぎないのではないかと考えてしまうのです。
何しろ小勇の製作はスピードも精度も高いわけですからね。
注文を受けて絵画を制作するという小勇は、時代が時代なら、ルーベンスのような偉大な親方画家だったかもしれないなと思わされました。
このスピード感や量産体制が徹底している様子はぜひ映画で観てみてほしいです。

「芸術とは何か」

この感想を書くために、久しぶりに美学や芸術学のことを記憶を頼りに調べ、たくさん考えました。

映画館では様々な論評がまとめて展示されていましたが、個人的には週刊文春のこちらがしっくりきました。
夜のカフェテラス」の場面の哀切に触れていた論評が案外なかったんですよね。

「親愛なるテオ 僕は近くを歩いているつもりだが、それは遠いのかもしれない」

映画冒頭で示されるゴッホの手紙からの引用文は、ゴッホと小勇の関係性に重なっていきます。

芸術とそうでないものの境界線はひどく淡いものですが、確かに「それ」は存在しています。
小勇は「それが淡いながらも存在している」ことに気づいてしまったのです。
皮肉にも彼が敬愛するゴッホの作品によって。

技術と狭義の芸術の境界線が淡いからこそ、小勇は葛藤し、しかしその上で「それ」を超えていきたいと決意するのです。
これからの小勇の道程の傍にはゴッホと彼の作品、そしてきっとこの旅が寄り添い続けるのだろうと思います。

映画自体の眼差しは淡々としたものですが、まだ私の中で咀嚼しきれていないくらい、考えさせるための情報量は多いです。
いわゆるひとつの「芸術の秋」に、「芸術とは何か」をもう一度問い直すことができたいい映画でした。