美術手帖・今津景インタビューが胸に刺さった

Twitterをぼやっと眺めていたらこのタイトル。
美術史、私、テクノロジーが指さす景色です。
美術史を学ぶ意味を自分なりに考え、いったん文章で形にした後のタイミングでこのタイトルが目に留まりました。

作品の製作者が美術史とどのように向き合っているのかというテーマについて、年月や作品の変化を追って振り返っていて、とても面白かったので紹介したいと思います。

記事はこちらから。

冒頭の、製作において今津さんが歴史を意識する理由がもう…美大に入学して卒業して、製作の道を歩んでいる人が、感性や感覚に自信がないと表明することに驚きました。
一方で、描ける人、創作(製作)できる人だからこそ、歴史の人物が歴史に名を残す所以を画面から掴み取れてしまうのだろうか、とも思いました。
それはもう「再現できない」と慄いてしまう程に「分かって」しまうのだろうか…などと想像しましたがどうなのでしょう。
私には「分かってしまう瞬間」は想像もつかない世界ですね。

ただ、全く次元が違うものの、感性に自信がないからこそ美術史の流れを感じたいという想いには親近感を持ちました。

私は感性や感覚で自由にキャンバスに絵を描くということができないんです。なぜならマティスのあの素晴らしいカラッとした線や塗り、カラヴァッジオのドラマティックなスペクタクルを見てしまうと、これはもう絶対にかなわない、十分に完成された人がすでに巨匠としてごろごろ存在している。そんな絶望が最初にあって、私に何ができるだろうと考え出したのが始まりです。

度々書いていますが、私は、現代アートは「画材の選択」にも画家の意志が込められていることが多く、その選択が自由であることが現代アートの面白さのひとつだと思っています。

桑久保徹のように古典的とも言える厚塗りの油彩を選択することも、増田セバスチャンのように「カワイイ」に貫かれたマテリアルを選択することも自由。
そして今津さんのようにPhotoshopを使用することも自由なんですよね。
美術史という大きな流れを意識しながらテクノロジーを駆使した手法で作品を生み出すという立場がとても興味深いなと思いました。

歴史に寄りながらもテクノロジーによってそれらを並列に扱うことができる、巨匠達の空間認識と様々なテクノロジーを扱う現代の私達の空間認識は異なるのではないか、という飛び抜けた発想を実際の作品にまで落とし込めるところが、作品の製作者って本当にすごいなと思うんですよね。
発想だけで留まらず、作品として考えを示すことができるという部分でまず尊敬の念を抱きます。

美術史との向き合い方や作品としてのアウトプットの方向が面白いなと思ったので、実際の作品も観てみたかったのですが、記事によると個展はすでに会期が終わってしまっているようです。

記事の中の作品だとこの《PUZZLE(草上の朝食)》が好きです。
マネの《草上の朝食》を頭の中で「呼び起こして重ね合わせようとする」体験を、できれば実物でしてみたいなと思いました。
ご本人の公式のサイトである程度まとまった数の作品を観ることはできるのですが、やはり実物を観る機会があれば観てみたいですね。
その機会を逃さないようにしたいなと思います。