フィリップス・コレクション展@三菱一号館美術館

三菱一号館美術館のフィリップス・コレクション展に行ってきました。
公式はこちら

写真撮影可能なエリアがあります。
ピエール・ボナール展も行きたいんですけどなかなか時間的・体力的な余裕がなく指を咥えています…

「全員巨匠!」というキャッチコピーがついていますが、随一のコレクターの眼差しを体験できるという点の方に意義がある展覧会であると思いました。

ダンカン・フィリップスとその妻で画家のマージョリー・アッカーが、それぞれの作品や画家たちにどのような価値を見出したのか。
またどのような美術史上の「繋がり」や「意義」を見出したのか。
その都度ダンカン・フィリップスのコメントがパネルで展示されていることもあり、全ての展示を観た時にコレクションとしての美学がくっきりと浮き上がるようになっています。

モンティセリとゴッホ

この展覧会には2点ゴッホの作品が来ていますが、それよりも興奮したのがモンティセリの《花束》です。


アドルフ・モンティセリ《花束》1875年頃、フィリップス・コレクション
Monticelli Sends a Brilliant Bouquet to Van Gogh by | The Experiment Station | The Phillips Collectionから引用しています。
「モンティセリはゴッホに華麗な花束を送った」という素敵な題名がついています。
brilliantの訳し方に悩みましたが、「輝くような」も良かったかもしれません。

モンティセリとゴッホの関係性については以前の記事でも取り上げています。

先のブログによると、ダンカン・フィリップスはモンティセリとゴッホについて1954年に以下のように書いているとされています。

“How could we have failed to see that Monticelli at his best . . . is the link connecting the Romanticism of Delacroix with the Expressionism of Van Gogh and with all subsequent Expressionists down to our own day? It was Van Gogh himself who first sensed this truth.”

どうして私たちはモンティセリ自身の最良の作品を見せてもらえなかったのでしょう…それはドラクロワロマン主義ゴッホ表現主義を結びつける繋がりです。この真実を最初に感じたのはゴッホ自身でした。

Google翻訳でニュアンスを取ってからのほんのり意訳気味ですが、だいたいこんな感じのことだと思います。
会場の展示では「ドラクロワロマン主義と、ファン・ゴッホ以後現代に至るまでの全ての表現主義とを結びつける」というコメントがついていました。

まさかモンティセリの作品を生で観られるとは思っていなかったので嬉しかったですね。
どっしりとした厚塗りと暗い中の様々な色彩を感じ取ることができました。
自分で書いたブログの引用にはなりますが、ゴッホが「モンティセリのイメージ」をずっと胸に抱いていたことはやはり事実なんだろうな、ということを改めて認識できましたね。
またひとつ私の中のゴッホ観を更新することができました。

このような「繋がり」はゴッホとモンティセリの例に留まらないため、ほぼ全ての作品に美学を感じることができます。
元々コレクションを展示する前提でコレクションを構築したということもありますが、そのような「繋がり」に価値を見出しているダンカン・フィリップスの慧眼はかなりのものであると感じました。

あと好きだった作品はロジェ・ド・ラ・フレネの《地球全図(エンブレム)》とゴーギャンの《ハム》です。
《地球全図》の「他のキュビズム作品には見られない明瞭さを獲得している」という解説が面白かったですね。
ジョルジュ・ブラックピカソの作品も数多く来ているので見比べてみると楽しいと思います。

《ハム》は言わずもがな題材がユニークです。

ポール・ゴーギャン《ハム》1889年、フィリップス・コレクション
Web gallery of Artより引用しています。
やっぱり何度見ても題材がいいですよねえ…無条件に好きだなあ、面白いなあと思います。

ちょっと手元に写真がないのですが、モンティセリの《花束》と合わせてこの2枚はポストカードを買いました。
今回の展覧会はポストカードの種類がとても多いのも嬉しかったですね。

やっぱり立ち返る「芸術とは何か」

最後に、今回の展覧会の最終章「ダンカン・フィリップスの遺志」のキャプションに載せられていた言葉を紹介します。

絵画は、私たちが日常生活に戻ったり他の芸術作品に触れたりしたときに、周囲のあらゆるものに美を見出すことができるような力を与えてくれる。このようにして知覚を敏感にするよう鍛えることは決して無駄ではない。私はこの生涯を通じて、人々がものを美しく見ることができるようになるために、画家たちの言葉を人々に通訳し、私なりにできる奉仕を少しずつしてきたのだ。

とても素敵ですよね。
このブログでもずっと考え続けている「芸術とは何か」という問いに対するひとつの、とても美しい答えであると私は思いました。

このところアートとビジネス絡みで何となくざわざわした雰囲気を感じています。
私個人の感覚としては、役に立つかどうかという視点や、何か得るものがあることを前提にして芸術やカルチャーに触れるのはちょっと野暮な気もしますけど、まあ美術界隈が盛り上がって経済が回ること自体はいいことだとは思いますね。

ただなんというか、教養主義みたいな感じになるのは嫌だなあとは思います…私自身も時々陥りがちではあるので気をつけたいところではあります。
知識量で殴り合いみたいなのは好まないですね。
マウンティングの道具になったり、会社の研修に組み込まれたり、とかになってくるとちょっと違和感が出てきますけどそれはまあ私の考えすぎですね。

ちょっと脱線しましたが、フィリップス・コレクション展の感想でした。


映画『世界で一番ゴッホを描いた男』技術、経済、そして模倣と芸術の境界線

新宿シネマカリテにて映画『世界で一番ゴッホを描いた男』を観てきました。

公式はこちら
原題はchina's van goghなんですね。


あらすじ

中国深セン市大芬(ダーフェン)は世界の複製画の6割近いシェアを担う「油画村」。
そこに出稼ぎでやってきた趙小勇(チャオ・シャオヨン)は20年もの間ゴッホの複製画を描き続けているが、いまだ本物のゴッホの作品を観たことがない。
アムステルダムへの渡航費をなんとか工面し、家族への説得の末、ついに小勇と一行はゴッホ美術館で本物のゴッホの作品と念願の対面を果たす。
旅は「夜のカフェテラス」、そしてゴッホとテオが眠るオーヴェル=シュル=オワーズへと続く。
帰国した小勇は、旅を経てある決意を胸に抱く。

技術、経済と芸術の境界線

あらすじはネットで検索すればいろいろ出てくるのですが、私は「ゴッホの本物の作品を観て彼は真の芸術に目覚める」的な結末にこのドキュメンタリーを簡単に押し込めるのは違うんじゃないかな?と感じています。

芸術学や美学の領域をほんの少しかじった者としては、「模倣画は真の芸術ではない」という意見には懐疑的です。
なぜなら、じゃあ「真の芸術」とは何なの?という話になってくるからです。

気軽に使われがちな「アート」という言葉の語源を紐解いていくと壮大な芸術の成立史の話になってしまうので、ある程度かいつまんでいきます。

そもそもアート(英:art)の語源のラテン語arsはギリシア語のtechnēに相当します。
technēは今日の英:technicや独:technikに当たる通り、「技術」を指します。
自然に対する人間がものを作る技術総てをひっくるめたものがarsです。

しかし18世紀以降、近世の新しい価値観として美を追求する「美しいart」という概念が登場します。
(仏:beaux-arts、英:fine arts)
これが現在私達が「芸術」「アート」として認識している文学、音楽、造形美術、演劇、舞踊、映画などの総称になります。

つまり広義のartには職人の技や手仕事も含まれており、今回で言うところのゴッホの絵画は狭義の「美しいart」に当たるというわけです。

※この話に日本語の「芸術」の受容歴史も加わると相当ややこしいので、詳しくは以下のページを参照してください。

芸術(げいじゅつ)とは - コトバンク
テクネー(てくねー)とは - コトバンク
芸術と技術

あと恐らく佐々木健一『美学辞典』も本当は読まなければこういうことは語れないよなあ…と思っています。
ちゃんと大学時代に買っておけば良かったのに参考レベルだからと買うのをケチった自分を殴りたいですね。

美学辞典

美学辞典

長々と描きましたが要するに言いたいことは、小勇の技術の追求と美しさを求める芸術の境界線は、artの語源を紐解いていくと実はものすごく淡いものなのではないか?ということです。

また、経済活動と芸術の境界線も淡いものであることは作中でも度々触れられています。

ゴッホも絵が売れることを願っていた」
自らが模倣画で稼いでいることに対して、小勇は繰り返しこの言葉を語っていたように思います。

西洋の芸術史(音楽、絵画その他諸々)を俯瞰していくと、長らく作曲者や画家には王や貴族といった、お金を出すパトロンがいました。

芸術家は貧乏である、しかも美を求める上での清貧である的なイメージはそれこそゴッホのイメージが「芸術家のイメージ」にすり替わっているようにも感じます。

あくまで近世〜近代の芸術家にそういう人物が多かっただけで、ミケランジェロルーベンスハイドンやリストなど、割と生前に成功している芸術家は多いんですよね。
モネも初めは困窮しますが、後に印象派の画家の大家みたいな感じになりますし。
じゃなかったら首相を巻き込んで睡蓮の部屋という大作を実現できるわけがない。

実際にある「夜のカフェテラス」を小勇と一行が訪れた後、酷く泥酔した小勇は叫びます。
「カフェテラスの前で俺は素早く絵を描く。鮮やかさにもう1枚描いてくれとせがまれる」
「俺はゴッホだ!」

細かな台詞回しの再現ではないのですが、小勇の誇りと葛藤、そして後ろめたさのようなものが吐露されていくこの場面に胸がつまりました。
異国の裏通りを彷徨う高揚感も、次のカットではホテルで嘔吐する小勇が映されることによって、酒による無理をした虚勢であったことが残酷なまでに示されるのです。

模倣・ミメーシスという言葉と芸術論

この映画を観ている最中、私は大学で必修課題として取り組んだ「芸術とは何か」に応える課題を思い出していました。
このブログでも度々書いています。
例えばこの記事ですね。
イデア論、そしてニーチェの「超人を目指して飛ぶ憧れの矢」などを絡めて説明した記憶があります。
超・余談ですが『蜜蜂と遠雷』の実写映画化も発表されましたね!松岡茉優さんが出るとのことでとても楽しみにしています。

話を戻しまして、プラトンから連なる芸術論について分かりやすくまとまっていたこちらのページを引用します。
当時私が言いたかったことがさらに明確に、そしてハイデガーまで絡めて書かれていて、そうだよそれを言いたかったんだよ…という心境です。

ミメーシスとしての芸術:ハイデガーのニーチェ講義

プラトンの言うミメーシスとは、芸術にとどまらない。神による自然の現象の発現も、手工職人による制作も、画家の芸術活動もみな、イデアの模倣としてのミメーシスである。

ここですね。
「画家」ではなく「画工」であるところの小勇は手工職人です。
ですが直近で観てきた展覧会がルーベンス展だったこともあり、小勇の作品は近世〜現代の価値観に当てはめたときにのみ「狭義の芸術に当てはまらない」だけに過ぎないのではないかと考えてしまうのです。
何しろ小勇の製作はスピードも精度も高いわけですからね。
注文を受けて絵画を制作するという小勇は、時代が時代なら、ルーベンスのような偉大な親方画家だったかもしれないなと思わされました。
このスピード感や量産体制が徹底している様子はぜひ映画で観てみてほしいです。

「芸術とは何か」

この感想を書くために、久しぶりに美学や芸術学のことを記憶を頼りに調べ、たくさん考えました。

映画館では様々な論評がまとめて展示されていましたが、個人的には週刊文春のこちらがしっくりきました。
夜のカフェテラス」の場面の哀切に触れていた論評が案外なかったんですよね。

「親愛なるテオ 僕は近くを歩いているつもりだが、それは遠いのかもしれない」

映画冒頭で示されるゴッホの手紙からの引用文は、ゴッホと小勇の関係性に重なっていきます。

芸術とそうでないものの境界線はひどく淡いものですが、確かに「それ」は存在しています。
小勇は「それが淡いながらも存在している」ことに気づいてしまったのです。
皮肉にも彼が敬愛するゴッホの作品によって。

技術と狭義の芸術の境界線が淡いからこそ、小勇は葛藤し、しかしその上で「それ」を超えていきたいと決意するのです。
これからの小勇の道程の傍にはゴッホと彼の作品、そしてきっとこの旅が寄り添い続けるのだろうと思います。

映画自体の眼差しは淡々としたものですが、まだ私の中で咀嚼しきれていないくらい、考えさせるための情報量は多いです。
いわゆるひとつの「芸術の秋」に、「芸術とは何か」をもう一度問い直すことができたいい映画でした。


ルーベンス展の初日に行ってきました

10月の上野は展覧会ラッシュですね。
フェルメール展に引き続き、ルーベンス展の初日に行ってきました。

公式サイトは下記から。
ルーベンス展-バロックの誕生|TBSテレビ

着いたのは13:00過ぎぐらいです。
混雑感は、どの絵にもある程度の人数がいるくらいでした。
いつも言ってるかもしれませんが、箱が大きいと圧迫感が軽減されるのでありがたいですね。
今回は大型作品が多かったので、仮にものすごく混雑して遠目で観ることになっても、一定の満足感は得られると思います。

展示室に入る前の空間では、ルーベンスの作品がある教会や作品を紹介する映像が流れています。
普段わたしは割とこういうのはスルーしがちなんですけど、パイプオルガンの荘厳な音が響いてきたのに心惹かれたので座って最後まで観ました。

フランダースの犬でお馴染みのアントワープ聖母大聖堂も登場しましたが、本当に綺麗な建物ですね。
アントワープ大聖堂」でGoogle検索をすると360°ビューが色々見られるのですが、映像で印象に残ったアングルはだいたいこの辺りです。
ゴシック建築の特徴である細くて高い柱や明るい光が差し込む構造がわかりやすいです。


(スクショしました。実際の映像で見るともっと荘厳で美しいですよ!)

完全なる余談ですが、フェルメール展で観た、様々な教会の細部を自由に組み合わせたエマニュエル・デ・ウィッテの作品《ゴシック様式プロテスタントの教会》はプロテスタントの教会ですが、アントワープ大聖堂教会はカトリックの教会です。


エマニュエル・デ・ウィッテ《ゴシック様式プロテスタントの教会》1668年、ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館(参考作品)

この絵が頭の中にあったので、アントワープ大聖堂教会の映像が流れた瞬間に「あ、ゴシック建築…」と気づけたのでした。

体力と気力が必要な展覧会

作品が大きく、また宗教の凄惨な場面を扱っているものも多いため、本展覧会を観るためにはかなり体力と気力が必要であると感じました。

今回のルーベンス展は、フランドルの偉大な画家ルーベンスのイタリア滞在に焦点を当てることで彼がイタリアから何を得たのかという部分を浮かび上がらせる、という大枠になっています。

古代の模倣から同時代の画家(カラヴァッジォなど)まで、ルーベンスがイタリア滞在で得たものが非常に広範にわたるため、正直知識も必要になります。
神話や宗教説話が少しでもわからないとわからない、みたいな部分もあります。
そういう意味ではかなりカロリーの高い展覧会だなと思いました。

ルーベンスフェルメール

注目すべきは、ざっくりしたカテゴリで言えばルーベンスフェルメールは同じバロックの画家であるという点です。
主に宗教画や祭壇画をメインにしたルーベンスに対して、フェルメールは主に風俗画の画家として知られています。
テーマは異なりますが、人間のあるシーンを光と影の対比を用いて浮かび上がらせるという点では確かに共通の何かはあるかもしれません。

とはいえ、ルーベンスの生没年(1577-1640)とフェルメールの生没年(1632-1675)の間にはネーデルラントとスペインの長きに渡る八十年戦争(1568-1648)があり、その戦争を経てネーデルラントはベルギーとオランダに分かれて独立したという歴史があります。

そういう意味でいうと、年代的にはルーベンスはフランドルの画家であり、フェルメールはオランダの画家なんですよね。
(この辺りはいつも難しいなあと思っています)

もともと毛織物産業や商工業で栄えていたフランドルやアントウェルペンから、八十年戦争の最中に難民として彼らが大量にホラント地域に流入したことや、日本との独占貿易を始めとした海の覇権を手にしたことで、17世紀のオランダは黄金時代に突入します。

宗教対立が巻き起こっていた時代に古代やルネサンス人、そして同時代の画家から学びを得た後に宮廷画家や外交官として生きたルーベンス
市民生活が発展した中で、独特の陶器の製造で有名になった街デルフトで生涯の多くを過ごし、贅沢にラピスラズリを使えるほどパトロンに恵まれながらも、晩年は貧困にあえいだフェルメール

同じバロック様式であり、同じ(広い意味での)ネーデルラントの画家である2人の作品が上野で同時期に観られるというのは、考えれば考えるほど贅沢なことであると思いました。
体力は必要ですが、17世紀ネーデルラントの懐の広さをぜひ両展覧会で堪能してほしいです。

ルーベンスルノワール


ルーベンス《神々の会議》1622-24年、ルーヴル美術館(参考作品)
The Council of the Gods, 1622 - 1624 - Peter Paul Rubens - WikiArt.orgより引用


ルノワールルーベンス作 神々の会議の模写》1861年国立西洋美術館
ピエール=オーギュスト・ルノワール | ルーベンス作「神々の会議」の模写 | 収蔵作品 | 国立西洋美術館より引用

同時代人からもさることながら、古典、ルネサンスから多くの知見を得たルーベンス…を模写したルノワールの作品が展示されていました。
時代が進む中で、ルーベンスの作品もまた画家を志す者が学ぶべき存在になっていった、という部分に非常にロマンを感じました。

どちらもなんですけど、ごく単純な話ですが画面に神々がたくさんいるという構図がいいですね。
詳しくないのでアレですがアベンジャーズ的な感じといいますか…

今回のルーベンス展では「絵筆の熱狂」という章があり、そこでは感情表現の一環として筆致が荒々しい部分がある、という説明がなされています。
ですがやはりそこは同じバロック期の中で比較しての話なので、この《神々の会議》の画面のマティエール自体も比較的つるりとしている印象でした。
しかし描き込みはものすごく精緻、非常にリアルであると言えます。
※会場ではパネルでの展示なので、あくまでそれを観た印象です。

ルノワールの《神々の会議》は現物展示です。
見比べた時の圧倒的な色彩感はさすがですね。
筆さばきも大きく、より大胆な印象を受けました。
布の質感とかもよりフラットで大雑把な描き方なのに、きちんと布としての質感が示されています。
筆致が大きいことによって「絵である」ということがはっきりはしているんですが、平坦でのっぺりとしているようには見えないんですよね。

なので、「絵画のイリュージョン性」とでも
言えばいいのでしょうか…「ないものをあるように見せる」という点ではどちらも甲乙つけがたいなと思いました。
魅せ方、描き方の変化をぜひ会場で見比べてみてください。


フェルメール展・初日に行ってきました!

偶然休みが回ってきたので、急遽チケットを取ってフェルメール展@上野の森美術館に行ってきました。
公式サイトはこちらです。
フェルメール展

初日の混雑感

9:00からの回は多分混むだろうなと予想して13:00からの回を選んだのですが、まず普通に入場待ちの列が長いです。

12:45くらいに入り口に到着した時点で清水観音堂辺りまで列ができていました。

地図で表すとおそらくこんな感じだと思います。
汚くなってしまったのですが、丸をつけたところが私の並んだ位置、上の写真の掲示板の辺りになります。

1回美術館前で列が折り返すので入館には多少時間がかかりました。10分くらいですかね?
しかも私の5人後ろくらいで1度入館を切っていたので、時間指定制チケットといえどそれなりの待ち時間を見込んでおいた方が良さそうです。

あと、並ぶとすぐにチケットチェックが入るので、すぐ見せられるよう手元に控えておくとスムーズに入館できると思います。

そして15分待っている間にあっという間に後ろにも5m以上の列ができていきました。
体感ですが、休日・ピーク時のミラクルエッシャー展よりも列が長いような気がしましたね…
時間指定制なので確実に入れるのは分かっていますがなんとなくヒヤヒヤしました。

ひょっとすると時間きっちりに行くよりも指定時間の範囲内で1時間ほどずらした方が場合によってはスムーズに入れるのかな?とも思いましたがどうなんでしょうね。ここまで混んでいるともう並ぶのはしょうがないですね。何と言ってもフェルメールですから。


今回の入り口はこちら側からです。

知らなかったのですが、今回は太っ腹なことに音声ガイドも無料なんですね。
私は日頃からガイドは使わない派なので今回も使わなかったのですが、絵の横に解説がほぼないという音声ガイドありきの会場作りになっていたので、これは借りた方が良かったなと思いました。

別で作品リスト兼解説の冊子もくれるので音声ガイドがないと太刀打ちできないってわけではないんですけどね。
やっぱり何かと太っ腹な展覧会です。

中の混雑具合ですが、どうしても建物自体が小さいので圧迫感はありました。
今回に限っては順路通りではなく、空いてるところを見極めて彷徨った方が作品の細かいところが観られるかもしれませんね…ミラクエッシャー展のときもそんな感じでした…


家の照明だと色が綺麗に出なかったのですが実際はフェルメール・ブルーです。

フェルメール「以外」の17世紀オランダ絵画

フェルメールが日本に最大9点来ていることも途方もなくすごいのですが、今回展示されている17世紀オランダの様々な絵画も非常に魅力的です。

西洋美術史における17世紀オランダ絵画の影響ってかなりすごいんですよね。
風俗画や静物画が成立したこと、王侯貴族だけではなく一般市民も絵画を買って鑑賞する文化や肖像画を残す文化があったことなど、「絵画のジャンルの拡張・絵画市場の拡張」という意味で、絵画のその先を決定づけたタイミングのひとつと言えます。

個人的にはこの時代の静物画が好きなんですよね。
「ヴァニタス」「メメントモリ」に代表されるような、宗教的意味合いや寓意を混ぜ込んであるような、ないような…という狭間の雰囲気がたまりません。

各々が得意分野を持ち「○○の画家」と呼ばれた、というような専門性も好きですね。
その手のもので面白かったのは「魚介類の画家」ヤン・デ・ボントの作品です。


ヤン・デ・ボント《海辺の見える魚の静物》1643年、ユトレヒト中央美術館

Jan de Bondt (active 1639-1653)より引用しています。
カラー版はぜひ会場で観てみてください。
インパクト抜群ですよー。

あとは教会を描いた作品3点も素敵でしたね。
先の冊子の解説によれば「実在する教会の建築を専門に描いた最初の画家」であるピーテル・サーンレダムの作品が2点、逆に様々な教会の細部を自由に組み合わせたエマニュエル・デ・ウィッテの作品が1点です。


ピーテル・サーンレダム《アルクマールの聖ラウレンス教会》1635年、カタリナ修道院美術館
(Gezicht op een kapel in de noorderlijke zijbeuk van de Grote of St.-Laurenskerk te Alkmaarより)

実際に測量を行った上で明確な遠近法を用いた画面構成です。
聖なるものである、的な宗教性を描くのではなく、教会という「物体」そのものを描くために苦心していたんでしょうね。
感性ではなく測量という手法を取る辺りが、17世紀オランダが技術においても最先端を行っていたことを伺わせます。
フェルメールカメラ・オブスキュラを使っていたという通説にも繋がりますね。

一方で要素を組み合わせて架空の建築物を作るという方向に振り切ったデ・ウィッテも面白いですね。
今回展示されている《ゴシック様式プロテスタントの教会》が会場内では比較的大きめの作品に入るので目を引きます。

いつものWEB GALLERY of ARTのデ・ウィッテのページも教会だらけです。
今回展示されている作品が見つけられなかったので、ここから同名の作品を紹介します。


エマニュエル・デ・ウィッテ《ゴシック様式プロテスタントの教会》1668年、ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館(参考作品)

この作品に見られるシャンデリアは今回の展示作品にも描かれていました。
うっとりしますねえ…彼もまた違うベクトルで「教会の画家」だったみたいです。
サーンレダムとデ・ウィッテ、差は約20-30年くらいですかね?(生没年比較だと20年)
同じ17世紀オランダ、同じ題材でもこれだけ方向性が異なるのは興味深いですね。

フェルメール・ルームお気に入りの1点

とにかく、とにかく贅沢な空間です。

どれも素晴らしいのですが、私のお気に入りは日本初公開の《ワイングラス》です。


ヨハネス・フェルメール《ワイングラス》1661-62年、ベルリン国立美術館
(WEB GALLERY of ARTより引用)

ステンドグラスの描き込み、質感が素晴らしいですよね。
手前側の窓には、奥側の窓の模様も描き込まれているように見えます。
色合いはこの画像だと少しくすんでしまっているのですが、公式サイトにあるような、静謐ながらもドラマチックな印象が近いです。
女性の頭の白い布や、テーブルの天鵞絨のような掛物といった質感の描き分けも美しいです。
ステンドグラス窓の横の淡いブルーの布、カーテンでしょうか…こちらの発光具合はもはや神がかっていますね。

あと、実は後期出展が予定されている《取り持ち女》も好きなんですよね。
初期の傑作として度々本では目にしていましたが、実物が観られるとは思っていなかったので嬉しい限りです。
来年の1/9から会期終了までの展示で、《赤い帽子の娘》と入れ替えになります。
混雑がどうなるか分かりませんが、是非もう一度行きたいです。

今回のお土産

「牛乳を注ぐミッフィー」大です。
これが欲しくて欲しくてですね!このコラボは買うしかありません。

小(ボールチェーン付き)も欲しかったんですけどちょっと予算が微妙だったのでこちらのポストカードで我慢しました。
このポストカードはずるい、和みます笑
《ワイングラス》のポストカードも一緒に買いました。

今回はあちこち結構いいところとコラボしている分なのか、軒並みグッズがお値段高め設定なんですよね…素敵なんですけどね…鞄とかハンカチとかも可愛かったので、次に行くなら予算を高めて行こうと思います。


世界を変えた書物展@上野の森美術館

9/14に世界を変えた書物展に行ってきました。
新しい仕事でドタバタしていましたが、一応1回は文化の香りに触れられたので満足です。

実はこの展覧会、度々記事に書いているニコ美がなかったら確実に気づかなかった展覧会でした。
ついにチャンネルもできたので非常に嬉しいです。
遠方の展覧会も解説付きで観ることができますし、ニコ美がもっともっと盛り上がってくれたらいいなと思いますね。
ニコニコ美術館 (ニコ美) - ニコニコチャンネル:社会・言論

というわけで世界を変えた書物展です。
公式サイトは以下から。
[世界を変えた書物]展 人類の知性を辿る旅|金沢工業大学

無料でこの量の稀覯本、しかも全て初版を観られるという贅沢の極みのような展覧会でした。
ニコ美だけでなくTwitterでも様々な情報発信がされていたので、金曜の閉館間際でしたが結構な混み具合でした。
それでも、全て写真可の展示会でしたが、流れに沿っていれば問題なく目当てのものは観られるし撮れる、くらいの混み具合だったのでストレスは感じなかったですね。

悲しいことに「数学がダメな子」(by橋本麻里さん)だったためにもれなく理系分野は全滅気味だったのですが、ニコ美の予習のおかげもあって楽しく観ることができました。


コペルニクス「天球の回転について」1543年、ニュルンベルク、初版

西洋占星術の世界が好きなので、この図にはときめきましたね。

太陽(sol)という文字が読めたり、月が三日月のマークになっていたりということくらいしかわかりませんが、それでも情報が後世に伝わっているという点において、やはり活版印刷による書物の力というものは情報伝達の上で相当に革新的だったのだと思いました。


メンデル「植物=雑種についての研究」1866年、ブリュン、初版
これは東京展特別枠でしたでしょうか…かの有名なエンドウマメの実験の本ですね。
生物選択でしたが、遺伝関係は唯一得意だったので懐かしかったです。
原典が観られるとは高校生の頃には当然思いもしなかったので、本当にいろいろなことが一期一会だなとしみじみしてしまいました。

美術の面から観る世界を変えた書物展

これを会期中に書きたかったのですがガッツがありませんでした。無念。

もともとこのコレクションが金沢工業大学の「工学の曙文庫」のものなので、今回も科学・物理・数学・工学などのいわゆる理系分野のものが13分野に分けられた上で多数展示されていました。

こんな感じでそれぞれの本の相関関係が分かるようになっていました。
ちょっとCivilizationシリーズのテクノロジーツリーを連想させます。
横長なので全体を収められなかったのですが、最終的に13分野のほぼ全てがアインシュタイン一般相対性理論の基礎」に(ひとまず)行き着くんですね。
未知の世界ですが、アリストテレスギリシア語による著作集」に始まり、脈々と知識が受け継がれていく様にとてもわくわくしました。

ですが、この中には理系分野だけではなく美術の面からも興味深い著作がたくさん展示されていました。

デューラー「人体比例論四書」


アルブレヒト・デューラー「人体比例論四書」1528年、ニュルンベルク、初版

版画家として有名なデューラーの芸術理論書です。
写真がいまいちなのですが、左ページの図はデューラーが人体をより正確に描くために人体の様々な部分の比を表しています。
偶然、いつもの「1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365」でデューラーが晩年に芸術理論への関心を深めていたことを知ったばかりの状態でこの展覧会に行ったのですが、ここまで緻密な芸術理論を展開しているとは思わなかったので衝撃的でした。
繰り返しになりますが、やはり現物を観てみないと知り得ないことってたくさんありますね。

あとは序盤に建築関係の書物が結構しっかり固められていたので、詳しい方はそのエリアだけでも幸せなのではないかなと思いました。

ガリレオ・ガリレイ星界の報告」


ガリレオ・ガリレイ星界の報告」1610年、ヴェネツィア、初版

望遠鏡を自作し月のクレーターの詳細にスケッチしたこの書物は、美術における天体の描き方(描かれ方)をも変えるほどのインパクトを与えました。
ガリレオ自身が画家のルドヴィコ・チーゴリ(1559-1613)と交流があったため、彼の描いたサンタ・マリア・マッジョーレ聖堂の《無原罪の御宿り》の月にはクレーターが描かれています。

※例によって藤田治彦『天体の図像学ー西洋美術に描かれた宇宙』を参照しています。
画像はIl Cigoli e la sua Immacolata Concezione con la luna di Galileo nella basilica di Santa Maria Maggioreから。

ゲーテ「色彩論」


ヨーハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ「色彩論」1810年、チュービンゲン、初版

ゴッホが読んでいた(かもしれない)本です。
なにかとゴッホへの愛を叫んでいるこのブログでは何度か引用していますが、書簡の中にこのゲーテの「色彩論」の色彩環を思わせる文章が出てきます。

それで赤-青-黄-オレンジ-紫-緑、六原色に均衡を与える頭脳の仕事からひとりで帰ってくるとき、ぼくは、呑ん平で気が狂っていたというあのすばらしい画家モンティセリのことをじつによく心に思い浮かべる。(書簡507、1888年7月)

もともとこちらの本は、ニュートンの光学論に対抗して書かれたという経緯があります。
(そちらの本も来ていましたが写真を撮りそびれました…)

ニュートンの光学論と大きく異なるのは、光だけでなく闇という概念を用いていること、そして、色彩が人間の精神に与える影響について述べているという点です。

「色彩論」のWikipediaにもわかりやすく載っているのですが、

ゲーテは光に一番近い色が黄、闇に一番近い色が青であるとする。

光に近い色である黄色、そしてそれに近い橙などはプラスの作用、すなわち快活で、生気ある、何かを希求するような気分をもたらす。闇に近い色である青、そしてそれに近い紫などはマイナスの作用、すなわち不安で弱々しい、何かを憧憬するような気分をもたらすとゲーテは言っている。

など、ゴッホが《夜のカフェ》で「ぼくは人間の恐ろしい情念を赤と緑で表現しようと努めた」(書簡533、1888年9月8日)ような、色彩が人間の感情にもたらす効果について強く意識していたことを踏まえると、やはりゲーテの影響は無視できないのかな、と個人的には思います。
実際に読んでいたかどうかまでは書簡では伺えないのが惜しいところですね。


ゴッホ《夜のカフェ》1888年、イェール大学美術館

「光に一番近い色が黄、闇に一番近い色が青であるとする」なんて読んでしまうと、《星月夜》なんかもまた違ったニュアンスを帯びてくるようにも思いますね。


ゴッホ《星月夜》1889年、ニューヨーク近代美術館

④ ジョルジョ・ヴァザーリ 「最も優れた画家、彫刻家、建築家の生涯」

東京展特別展示で、美術史を語る上で絶対に外せない、いわゆる「列伝」が来ていたのですが、ここでまさかの閉館時間が来てしまい写真撮影を逃すという大失態を犯しました…

ミケランジェロと理想の身体展でも今回の展示と同じく1568年の増補改訂が展示されていたので、物自体を観るのは2回目だったのですが、せっかくなので記念に残したかったです。

そしてこのエントリを書きながら気づいたのですが、本展会期中の9/8-24の間だけは上野の地に「列伝」が2冊あったことになります。
ものすごくゴージャスな事件がひっそりと起きていたのですね。


ウィリアム・モリスと英国の壁紙展@群馬県立近代美術館

8/25に駆け込みでウィリアム・モリス展に行ってきました。

チケットもモリスの総柄で素敵でした。

ちょっと時間が空いてしまったのであまり込み入った感想が書けなかったのですが、ひとまず自分のために記録に残しておこうと思います。

そもそもこの展覧会に興味を持ったきっかけは、ルーヴル美術館展@国立新美術館で観た《メリティネ》を調べていた時に、アカンサスという植物が鍵となっていることがわかったからです。
アカンサスをさらに深掘りした時にウィリアム・モリスの作品も出てきたので、俄然興味が出てきたんですよね。
無事にお目当ての「アカンサス」も観ることができました。

Wikipediaから引用したこの画像よりも、実物はもっと葉の生い茂り方がダイナミックでした。
やはり実物を観られる機会があるときはなるべく実物を観た方が楽しいなと思いましたね。

音読で読み進めている『1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365』の装丁もモリスが使われています。

この表紙にもなっている作品も見ることができました。
タイトルはseaweed、つまり海藻です。
当時としては新しいモティーフも取り入れているという解説がついていて面白かったです。


ニコ美・ミケランジェロ展の感想

度々紹介しているニコニコ美術館、略してニコ美のミケランジェロ展の放送を観ました。

自分で観に行った時の感想はこちら。今回は、国立西洋美術館の主任研究員である飯塚隆さんの解説と共に夜の美術館を巡ります。
いやー、とにかく解説が熱かったです。
ひとつの展覧会、そしてひとつひとつの作品に対する愛や美意識の高さに感銘を受けました。

作品へのスポットライトの当て方(打ち方、と言っていましたね)ひとつを取っても、作品をどう観てもらいたいかというプランがあり、その実現のために学芸員だけでなく照明デザイナーと何度も打ち合わせを重ねたのだそうです。

例えば、今回の展覧会の目玉である《ダヴィデ=アポロ像》だけでも、様々な意図とそれを叶えるための工夫があるということを話していました。

・私たち鑑賞者が像を見上げた時に眩しくならないようにする
・西洋人の顔なので彫りが深いため目元に影が落ちないよう目だけに照明を「打つ」
・あえて顔の左半分だけに少し影が入るようにすることで陰影をつける
・腕によって身体に落ちる影の大きさを調整した
・こうした細かな調整のために特殊なライトである「カッタースポット」を7台使用した

…すごいこだわりですよね。
ニコ美で聞かなければ絶対に気づかなかったことだらけでした。

作品についての解説はテレビや実際の展示で目にするタイミングもあると思うんですが、「展覧会を作る」側からの、展覧会を作るための話を聞く機会はなかなかないですよね。
そう言った意味でも、この放送はすごく貴重なことだと思います。
展覧会の作品だけではなく、その出会い方や空間そのものも楽しもうという気持ちになりました。

古代のローマ時代の壁画を見つけた人々がその壁画を見て「まるでラファエロの絵画のようだ」と評したエピソードも面白かったですね。
ラファエロギリシャ・ローマ時代の彫刻からそのエッセンスを抽出し、絵画に落とし込んだことが逆説的に示されていて興味深かったです。
3次元から2次元に落とし込んだラファエロはすごいぞ、ということと同時に、ヨーロッパ社会の古典古代から学び続ける姿勢の強さも感じられました。

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今回の放送で、ポーラ美術館のルドン展の放送の記事で書いた「ニコ美の告知がもっと欲しい」ということについても新しい情報が追加されました。
やっぱり今回の方法のコメント内でも、告知の希望やニコ美チャンネルの独立を希望する声が多かったですね。

それを受けて放送内で、ニコ美を担当している久保田剛史さんのTwitter(@takeshikubota_)が公開されたので早速フォローしました。
これでこれから確実にニコ美を観ることができます!わーい!

次の放送は22日の19:30から「モネ それからの100年」です。
こちらもいまからとても楽しみにしています。