ヌードー英国・テートコレクションより@横浜美術館

またもや会期ギリギリ芸ですが、ヌード展@横浜美術館に行ってきましたので感想です。

最終週の平日ということで、お天気の悪さの割にはそこそこ混んでいたように思います。

こちらを利用して200円引きで観ることができました。
結構な割引額なのでありがたかったです。

公式サイト:ヌード展

※今回の引用はCollection | Tateから行っています。

始まりは19世紀のイギリスから

会場の解説によると、今回の展覧会は実現まで約3年の準備期間を経たという野心的なもののようです。

人間にとって最も身近な「身体・ヌード」と芸術の関係について、18世紀後半〜19世紀のイギリスから200年に渡って8つの章から検討されるという構成になっています。

1.物語とヌード&2.親密な眼差し

プロテスタントの影響下にあったイギリスにおいてヌード表現は一度物語の中に文脈を置き理想化されたものでした。

しかし19世紀後半、フランスにおける印象派ナビ派の画家達による物語に拠らないヌード表現に影響を受けてその理想化が次第に変化していきます。


ローレンス・アルマ=タデマ《お気に入りの習慣》1909年

ちょうど1章と2章を繋ぐ位置に展示されていたのがこの作品で面白いなと思ったんですよね。
水浴びのような古代風の状況や女性たちの肌艶は理想化されていますが、仕草なんかは結構「親密な眼差し」に近いところがあるので、徐々に画風のトレンドが変わって行く様子が分かりやすいと思いました。


フィリップ・ウィルソン・スティア《座る裸婦ー黒い帽子》1900年頃

2章ではドガピエール・ボナールマティスなど錚々たるコレクションが来ているのですが、個人的に想像力を刺激されたのはスティアのこちらの作品でした。
飾りはついている黒い帽子のみを纏った表情の見えない女性…どんな状況なんでしょうね。
どうしても後ろめたさや仄暗さを感じてしまいます。

3.モダン・ヌード&4.エロティック・ヌード

この辺りから「ヌード」というジャンルが確立され、身体が生々しさを持った造形的な素材として芸術家を引きつけるようになります。

3章から彫像が多くなってくるのですが、マティスを始めとして、どれも身体と分かるギリギリのところまで筋肉や表情を削ぎ落としたものが多いです。色々比べて観るうちに、鑑賞者の頭の中に理想の肉体が浮かび上がるように、造形そのものは研ぎ澄まされたシンプルなものになっていったのではと思いました。

ロダン《接吻》

今回の目玉にして唯一の撮影可能な作品です。


オーギュスト・ロダン《接吻》1901-4年(iPhoneにて撮影)

肌自体は滑らかで理想的でありながら、テーマはスキャンダラスな作品です。


手の大きさ、肌の滑らかさと石のままの部分の対比にどきりとします。

ルーヴル美術館展の時のように実際にぐるぐる回りながらこの作品を観て気づいたのですが、この作品のエロティックなところは、肝心の口元は相当下から覗き込まないと見えないところにあると思いました。
少しかがんで腕の下から覗き込む、つまり自発的に覗き見しないと見えないようになっているのでどぎまぎするんですよね。

図らずもターナー再び

全く意図もなく偶然だったのですが、続けてターナー作品を観ることになりました。


ジョゼフ・ウィリアム・マロード・ターナー 《寝室:空のベッド》1827年

旅行中のスケッチでターナーもこのようなエロティックな作品を描いていたようです。
散逸していたものが最近研究が進んでいるとのこと。
スケッチブックなのでかなり小さな作品なんですけど、不在のベッドから匂い立つ性の香りに、前回のターナー展との対比もあってくらりとしました。

5.レアリスムとシュルレアリスム

ここから近現代の作品へと移り変わって行くのでタイトルのみの紹介になります。
この章では肉体という確かなものを使って夢や無意識という不確かなものを描いた作品が集められています。
マン・レイうお座(女性と彼女の魚)》が気になりました。横たわる裸の女性と魚の絵なんですけど、女性と魚(の姿をした男性)のどちらがうお座なんだろう…と考えてしまいました。

6.肉体を捉える筆触

この章ではフランシス・ベーコンに焦点が当てられていますが、私のお気に入りはルシアン・フロイドの《布切れの端に佇む》です。
結構大きめの作品なので目を引きます。
画家が絵の具を拭くのに使ったと思われるごわりとした布と、その上の裸の女性の肌の質感が思ったよりも近しく描かれているところが特徴です。
布と身体の境界線が淡くではなくごわりと溶け混ざり合うような不思議な作品です。

7.肉体の政治性&8.儚き身体

ここからはかなりいわゆる「現代アート」に近づいていきます。最新の作品はサラ・ルーカスの2010年の作品です。
ストッキングに詰め物をした肉塊のような作品なのですが、形そのものはなぜこれが裸や性を想起するんだろう?という塊なんですよね。でも人間の脳はその形に性を、それも「いやらしい」と感じてしまうような性を想起してしまうのが不思議です。

終章「儚き身体」では、「制作のプロセスそのものの作品化」という、現代アートと向き合うにあたり指針となりそうなキーワードを見つけました。
以前、こちらの記事で私は現代美術について次のように書きました。

現代美術はそこまでとっつきにくくないのでは問題については度々話題にしていますが、現代美術はセルフライナーノーツが読める可能性が高いという点はこれからもっと注目していきたいと思いました。(中略)
一方で現代美術は、クリエイター自身がTwitterやwebサイトでセルフライナーノーツや日々のことを発信している率が高く、比較的情報を集めやすいし触れられる機会も多いのではないかと思います。
今まさに生まれているものである現代美術を掴むことはやはり難しいなとも思いますが、セルフライナーノーツを意識すると、一見難解な現代美術も、違うけれど同じ人間の営みであることが思い出せるため、少しハードルが下がるような気がします。

この時はセルフライナーノーツと現代美術について書いたのですが、今回のヌード展、終章の解説のこの文言を読んで「制作のプロセスそのものが作品となっている」というのも現代美術の面白い特徴なんだなと思いました。