ムンク展 共鳴する魂の叫び@東京都美術館②ムンクとゴッホと《星月夜》

引き続きムンク展の感想です。
前回はこちら。どうも私は極端で、会期最速で行くか駆け込みギリギリに行くかのどちらかになってしまうんですよね。
今年こそは会期中にまとめをかきおわりたいなと思っていたのですが早速挫折しました…
まあ自分の場所なので、納得と自分のペース重視で書き続けるようにします。

※今回も断りがない作品画像はWelcome to The Athenaeumより引用しています。

念願の《星月夜》と対面

卒論でゴッホの《星月夜》周辺を取り上げた話は度々このブログでも書いています。
実はその時にムンクの《星月夜》の話も後世への影響として入れ込みたくて、かなりムンクのことは真剣に調べていたんですよね。
その時に出会ったのがムンクの《星月夜》でした。
今回念願叶って実物を観ることができて、本当に嬉しかったです。


ムンク《星月夜》1922-24年、油彩・カンバス、ムンク美術館

雪に映る空の色と星の光、暗くなることのない白夜。
空も雪も明るいのに、自分の周りだけは何故か暗い。
それでも世界は、目の前の景色はこんなにも美しい。
星明かりのひとつひとつは小さくとも、確かに行きに明かりを灯しているかのように輝いています。
その星明かりは滲んでいるようにも、渦を巻きながら確かに外へ外へと拡散しているようにも見えます。


フィンセント・ファン・ゴッホ《星月夜》1889年、油彩・カンバス、ニューヨーク近代美術館

ゴッホの《星月夜》は、星や月が輝く夜空と山々、教会のある町並みと大きな糸杉が描かれています。
画面の上半分以上を占める夜空は青を基調とし、筆致がはっきり分かるほど大胆に描かれ、その夜空には大小様々の星が11個、黄色で渦を巻いているようにさらに画面右上には、右側が欠けた三日月が同じく黄色で描かれています。
山々の麓には町並みが広がっており、その中央部には十字架のある建物が点々と連なっています。
ある屋根には十字架がついていることから、その建物は教会であることがわかります。

ムンクの《星月夜》はゴッホの《星月夜》に直接的な影響を受けているか?という問いを立てて、あちこち資料を探したのですが、結局確証を得ることはできなかったため、ムンクの話は泣く泣くカットしました。

しかし画面だけ観ていると、星の描き方は似ている部分があるのかな、という気もしてきます。
発光する物の周りを渦巻きのように囲む描き方がなんとなく似ているようにも見えます。

奇しくも興味深い展覧会が2015年、ゴッホ美術館で開催されていたようです。
「ムンクとゴッホ」展 – NTV EUROPE–Topics

言いたいことがほぼそのまま書いてあるのでがっつり引用します。

同時期にパリに滞在していた二人が出会うことはなかった。
しかし、二人ともモネの光と色彩表現を尊敬し、マネの肖像画ロートレックの人物画にインスピレーションを受け、ピサロの点描技法を経験し、カイユボットの画面構成を取り入れ、新しいアイディアをスポンジのように吸収し、自らの芸術を確立していった。
さらに二人を深く結び付ける類似点は、人間の存在の本質と、その意味を追求する姿勢であった。
繰り返され続ける生や死、愛と希望の喪失による恐怖と苦痛など、答えの出ない本質的で普遍的な問題に熱心に取り組んだ。
奇しくも二人とも、恋愛のもつれにより、自らの身体を傷つけている。
ゴッホはこれらのテーマを《子守女(オーギュスティーヌ・ルーラン)》《荒れ模様の空の麦畑》《サン・ポール療養院の庭》で、ムンクは《星明りの夜》《叫び》《病気の子ども》《マドンナ》で取り組んだ。
このように、同じ絵画技術を習得し、同様のテーマを扱っていたのにも関わらず、二人が描いた作品は大きく異なっている。
それぞれの代表作である、ゴッホの《ひまわり》、ムンクの《叫び》を比べると理解できるだろう。ゴッホは現実世界を、練習に練習を重ねたうえで描き、ムンクは見ているものではなく、見たものを現実世界に縛られることなく自由に描いている。ここに二人の画家の個性の在り方が浮き彫りにされていると考えられる。

卒論を書いていた当時に読みたかった文章です…

ムンクの《星月夜》の実物、そして様々なゴッホの作品を観て感じたことは、やはりどちらも個人が人間の普遍的な問題に立ち向かっているという感覚です。

ゴッホは実景の中に死の匂いと憧れ、一方で生への執着と慄きを描いているように見えます。
一方でムンクが追求したのはやはり「愛の形」なのではないでしょうか。
ゴッホの《星月夜》が生と死のうねりとぶつかり合いであるとすれば、ムンクの《星月夜》は孤独の中でも垣間見える自然への眼差しと愛なのではないかと感じました。

ムンクの星・月・太陽の表現

先に紹介した《星月夜》のように、ムンクは星については、小さな渦巻き模様と拡散する線で描いています。

最も特徴的なのは月の表現です。


《夏の夜、マーメイド》1893年、油彩・カンバス、ムンク美術館


《月明かり、海辺の接吻》1914年、油彩・カンバス、ムンク美術館

様々な作品に見られるような、満月とそれが水面に映り込み溶けたような月の柱が特徴です。
欠けた月ではなく満月を描くこと、水(海)と月がともに描かれることが多いですね。
夜の中ではひときわ輝く柔らかな月の光の質感が伝わってきます。

この月柱に関しては講談社の『名画への旅』シリーズの17か18か19のどれかに詳しく載っていたと思います。
大学の図書館に行きたい…

一方、太陽は圧倒的な明るさと存在感で描かれています。


《太陽》1910-13年、油彩・カンバス、ムンク美術館

ムンクの塗り方は、油彩ながら透明感があり、色彩は強烈ながらマティエール自体は比較的薄塗りの印象があります。
しかし《太陽》は例外的に、かなりしっかりとした厚塗りが施されています。
それこそゴッホを思わせるような厚塗りだったので、会場の他の作品の中でも異彩を放っていました。

また、星を描くときには控えめだった放射線状の拡散する光の線の、同心円状に広がる光の輪がはっきりと大きく描かれています。

様々な作品を一気に観るうちに、ムンクは、自立して光る星と太陽は類似する描き方、光を反射して光る月は溶けたような月柱という描き分けをしていたのではないか?という気がしてきました。
実際のところはわかりませんが、そうだとしたら凄まじく理知的というか、自分の作品にはしっかりとしたストーリーや理論、繋がりがあるべきだと考えていたのかなという印象が強まりますね。


ムンク展 共鳴する魂の叫び@東京都美術館 ①愛の形

仕事の絡みでSNSやライティングの機会が増えたのは嬉しいのですが、やはりここは私にとって特別な場所です。
今年もこの場所では自由気ままに、楽しんでインプットとアウトプットを続けたいと思います。

ということで新年ひとつ目の展覧会、ムンク展@東京都美術館の感想です。

6日に行ったので門松も立っていました。
公式サイトは下記から。
【公式】ムンク展ー共鳴する魂の叫び

■混雑の様子

混雑度合いは結構キツめでした。
元々混雑しているという情報を仕入れていたので、先にJRの上野駅でチケットを買ってから並びました。
それでも入場まで20分ほど待ちましたね。
館内も久しぶりに人と人の間から絵を覗くという状況でした。
まあ年始休みの真っ只中ですしね。

■感想・愛の形

※今回も断りがない作品画像はWelcome to The Athenaeumより引用しています。

ピエール・ボナール展と同じくらいの衝撃でした。
去年のうちに観ていたら確実にTOP5に入ってましたね。
これだけ日本でまとまったムンクの作品が観られることはそうないんじゃないかと思います。

今回多くの作品を貸してくれているオスロムンク美術館に実際に行った友人からは「版画がとても良い」と聞いていましたが、確かにとても良かったです。


《ブローチ、エヴァ・ムドッチ》1903年リトグラフムンク美術館

この年に知り合ったヴァイオリニスト、エヴァ・ムドッチを描いた作品です。
髪の豊かさ、艶やかなうねりと魅惑的な眼差しに吸い寄せられてしまいます。

この作品の前から、ムンクの描く女性は豊かな髪を基本としています。
女性性の強調、男性性との差別化という意味合いでしょうか。


《接吻》1895年、エッチング・ドライポイント、ムンク美術館
Edvard Munch - WikiGallery.org, the largest gallery in the worldより引用

こんな感じですね。
《接吻》のモティーフの変化も追いかけていくととても楽しいです。
こちらは比較的写実寄り。
スナップショット感がたまらないですね。
ムンクは実際にコダックのカメラを所有していましたが、こちらの作品は恐らくカメラ入手前のものです。

(ポケモンとのコラボでなんでコダック?と思っていたのですが、さてはコダックのカメラだからという理由ですね…)


《吸血鬼》1895年、油彩・カンバス、ムンク美術館

《接吻》の変形モティーフでしょうか。
豊かな赤い髪が広がる血管のようにも見えます。
互いに溶け合うような一体感も「愛」ならば、互いに傷つき苦しみながらも離れられない、そんな関係性も「愛」の別の側面である…などと思いを馳せたくなりました。

ところで、キリスト教における赤髪は罪を示すのだそうです。
会場の解説で気になったのでざっと調べてみたのですが、
・人類最初の殺人を犯したカインとアベルのカイン
・キリストを売った裏切り者ユダ
が、赤髪であったとされています。

罪を犯した人間も愛することは止められない。
罪だと分かっていても止められない愛がある。

かつて人妻との愛に苦しんだムンクの経験が描かせた作品だなと、愛についてなんだかいろいろ考えてしまう作品でした。

✳︎✳︎✳︎

やはり私は19世紀末〜20世紀初頭あたりまでの画家がどうしようもなく好きみたいです。
その理由はいろいろ考えてみたのですが、ひとつは宗教に拠らない個人の内面告白の要素があるというところに惹かれているのかなと。

もちろんキリスト教信仰の要素がある画家も好きなんですけどね。
ルオー展もかなり好きでしたし、ぐっとくるものがありました。
しかしキリスト教を下敷きにしているものはどうしても自分のバックボーンにないため、ぴたりと重なり合うわけではないんですよね。

私はやはり、個々人が持つ内面の葛藤、それを昇華する様をさらけ出した結果としての作品が好きなのだと思います。

写実から少しだけ離れ、画家の眼差しが感じられるようなものが好きなのは、画家の内面と私自身の内面が重なり合うような体験を無意識のうちに求めているからなんでしょうね。
いま自分が抱えている感情は普遍的なものであるということに救われているのだと思います。

ちなみに、写実から離れすぎるとまた重なり度合いが変わり、どうも難しいと感じてしまいます…

《星月夜》と天体のある風景についてもたくさん書き残したいことがあるので、次回もムンク展についてです。
なにしろ長くなりそうなので…

【続きを書きました】


超私的・2018年の展覧会ベスト5

何か意識的にアウトプットをしなければという想いに駆られたことを機に、今年は学生の頃よりも遥かに真面目に展覧会に行き、ブログという形でアウトプットをしてきました。

年始に思いつきで始めたことですが、そのことがその後、適応障害になり、休職と退職、そして転職という人生の転機をサバイブするための糧となり、結果的に自分を自分で奮い立たせることができたと思っています。

そういうわけで、今年は27の展覧会に足を運ぶことができました。
今回はその中でも特に印象深かったものを5つ選びました。
ところで選ぶために自分の感想を読み返していたら天文学と印刷展を書きそびれていたという酷い失態に気づきました…これもめちゃめちゃいい展覧会なのでまた折を見て書きます!

5位 桑久保徹展「A Calendar for Painters Without Time Sense 1. 3. 4. 5. 7. 8」

体調が悪くひたすらベッドで意味なくスマホを眺めることしかできなかった時期の私を「あ、この作品は絶対に自分の眼で観たい」と引き上げてくれた、思い入れのある展覧会です。
ギャラリーデビューを果たしたという意味でも印象深いですね。

4位 ルーヴル美術館展 肖像芸術—人は人をどう表現してきたか@国立新美術館

とにかくキュレーションが良かったです。
肖像画や彫刻に対する苦手意識が吹っ飛びました。
ここから私自身の関心と行動がミケランジェロ展、そしてウィリアム・モリス展へと繋がっていったこともあり、何か特定の作品がというよりもキュレーションがすごく好みだった展覧会でした。
自分の幅をがつんと広げてくれたという点でランクインです。

3位 モネ それからの100年@横浜美術館

思い返したときにああ良かったなというタイプの展覧会です。
モネを起点にするという試みに真剣に取り組まれていたのだろうな…と敬意を表したくなる展覧会だったのだとしみじみ思います。
皆が知っているモネ、皆が観たいモネ(睡蓮)を見せながらさらに別のところに連れて行くという手腕が見事でした。
美術作品を語る上での語彙力、感じた結びつきを確かに他者にわかってもらうための努力、私も見習いたいものです。
福田美蘭を知ることができたのも良かったです。
ニコ生で聞いた「作品作るよ!→さらに思いついたからもうひとつ作ったよ!」というエピソードは、クリエイターってすっごい…と思いました。

2位 フィリップス・コレクション展@三菱一号館美術館

個人のコレクション系展覧会の中ではこちらが1番コレクターの想いを丁寧に掬い取っていたと思います。
絵画に対するダンカン・フィリップスの言葉が非常に印象深く、またすとんと自分の中に落ちてきたので、再度引用します。

絵画は、私たちが日常生活に戻ったり他の芸術作品に触れたりしたときに、周囲のあらゆるものに美を見出すことができるような力を与えてくれる。このようにして知覚を敏感にするよう鍛えることは決して無駄ではない。私はこの生涯を通じて、人々がものを美しく見ることができるようになるために、画家たちの言葉を人々に通訳し、私なりにできる奉仕を少しずつしてきたのだ。

モンティセリの作品を初めて自分の眼で見ることができたのも嬉しかったですね。
全員巨匠!のキャッチコピーがなければもっと好きでした…

1位 ピエール・ボナール展@国立新美術館

ピエール・ボナールが最後の最後にどーんと私の心を奪っていきました。
時期補正なしに、今年1番心に刺さる展覧会でした。
作品の持つ色彩と生命力にやられてしまいましたね。
こちらはキュレーションもさることながら、作品そのものの強さで1位です。
熱量の高さは昨日のエントリ通りですが、実はこれでも内容を半分削っています。
本当は風景画のこととか、静物画もいいなとかそういうことも書きたかったのですがあまりにも長すぎたので止めました。
ちなみに5位で挙げた桑久保徹さん、次作はピエール・ボナールの予定らしいのでそちらも非常に楽しみにしています。
画家が対面した、ある画家のテーブルの記憶。桑久保徹評「ピエール・ボナール展」|MAGAZINE | 美術手帖

次点その①ミラクエッシャー展@上野の森美術館

こちらは自分の好みを自覚したという意味で思い出深い展覧会です。
エッシャー自然主義的な風景画はかなり好きでしたし、同じ魚でもグラフィカルに書いていたりやけにリアルだったりする描き方の違いが見えて面白かったですね。
やはり同じ画家の作品をまとまった状態で観ると、何かこう、その人のフィロソフィーが見えてくる気がしていいなと思います。
私はそういうのが好きで展覧会に足を運ぶのだな、と思った展覧会でした。
あとはすごく並んだという意味でも大変思い出深いです。

次点その②名作誕生ーつながる日本美術@東博

日本美術に詳しい友人に連れられて日本美術の見方を教わってきた展覧会です。
噛み砕いていろいろ教えてくれたので、案外日本美術もとっつきやすいものだとハードルを下げてもらいました。
若冲雪舟の何がすごいのか、というところや、仏像を観るときの目の付け所などを教えてもらったので、今年はその後も何度か東博に行きました。
多分学生時代より真面目に行ってるんじゃないかな…
ただまあ行く度にもう少し日本史の勉強もしたいなあと思っては思っておしまい、という感じなので、来年はもう少しちゃんと美術検定の勉強がてら日本史もおさらいしたいです。

今年はこの他にも美術に関わる映画を3本観たり、原田マハさんのトークショーに行ったりと、かなり自分比で充実した時間と学びができたのかなと思います。
今年の頭はどうなることかと思いましたし、いまも服薬しながらの仕事と家庭の両立にあっぷあっぷしていますが、この記録そのものが私の2018年を肯定してくれているような気がします。

年始はムンク展からスタートの予定です。
ゴッホ展もクリムト展など、楽しみな展覧会がいっぱいなので、いまからわくわくしています。
来年も自分の心のために、たくさん展覧会に行って感想を書きたいと思いますので、またお付き合いいただければ幸いです。

それでは、今年1年ありがとうございました!


ピエール・ボナール展@国立新美術館

いざ、視神経の冒険へ。

こちらも会期末に駆け込んできました。
公式サイトはこちらから。
http://bonnard2018.exhn.jp/

視神経の冒険とは?と思っていたのですが、ピエール・ボナール自身の言葉からの引用なのですね。
一度見たものをある程度時間を置いてから描く、記憶を頼りに画面の上で再構築する試みを行っていたというのも興味深いです。
戸外に出てスケッチを始めた写実主義印象派の画家たちとはまた違う傾向です。
ある種の反動ですね。

ぼんやりとした印象を与え、構図も遠近感も不可思議なボナールの絵をよく見ると、思いがけない発見があります。目がとらえた形や色がものとして意味をなす以前の「なまの見かた」を絵にする試みを、ボナールは手帖に「絵画、つまり視神経の冒険の転写」と書きつけています。

この展覧会以前に、今年はヌード展@横浜美術館、フィリップ・コレクション展@三菱一号館美術館ピエール・ボナールの作品を観ています。


《浴室》1945年、テート・コレクション
Category:Paintings by Pierre Bonnard - Wikimedia Commonsより引用


《犬を抱く女》1922年、フィリップス・コレクション
※会場内撮影可能エリアにて撮影

ピエール・ボナールという画家のことはいままであまり意識していなかったので、正直これらの展覧会でバラバラに観たときはピンと来ていなかったんですよね。

■参考
しかしながら今回の展覧会でまとめて作品を観てみたら、あれ私ピエール・ボナール結構好きかもしれないぞと思うようになりました。
じわじわ恋に落ちていったような感じです。

《浴室の女》たち

※今回、断りがない作品画像はhttps://www.the-athenaeum.org/より引用しています。

第4章:近代の水の精(ナーイアス)たちでは、ピエール・ボナールの代表的なモティーフである裸婦、特に浴室や水の側の裸婦の作品がまとまって展示されていました。

私のお気に入りはこちら。


《洗面所》1908年、オルセー美術館

調度品のひとつひとつが可愛らしいですね。
何気ない日常の一コマ感は写真的な意識が見え隠れします。
この前の3章で、1890年初頭から彼が写真撮影を行っていたことが示されているのも展示として「上手いな」と感じました。

今回は来ていませんでしたが、同時期に描かれた似た構図の作品も存在します。


《洗面台の鏡》1908年、プーシキン美術館

どちらも可愛らしい調度品と、女性の顔が見えないことによる不穏さのギャップが面白いなと感じました。
よく見ると肌色がそれぞれの調度品と上手く呼応しているところも興味深いです。

裸婦の作例はこのように鏡越しのものからスタートしたようです。
様々な裸婦の作品をまとめて観ていく中で、彼の関心は鏡や写真のイリュージョン性のようなものから、のちに肉体の動きや日常の一コマの反芻に移っていったのかなと思いました。

花の絵が好きーピエール・ボナールとルドンー


《花》1933年頃、国立西洋美術館
※ポストカード撮影

まさかの国立西洋美術館蔵に「!?」となった作品。
ピエール・ボナール | 花 | 収蔵作品 | 国立西洋美術館
常設でまたじっくり観たい作品です。

どうも私、薄々気づいてはいたのですが人物画よりも花の絵が猛烈に好きなようです。
このブログを書くにあたりいろいろと作品画像を探していたのですが、この花の絵がまとまっているページが実に多幸感に満ち溢れていて鳥肌が立ちました。
Category:Flowers in paintings by Pierre Bonnard - Wikimedia Commons
参考作品ですが、 この2つの作品が特に気に入りました。
どちらも個人蔵のようなので生きているうちに実物が観られたらいいなあと思っています。


《野の花(Wildflowers)》1916年、個人蔵

テーブルクロスの直線と花々が取る自由な曲線の対比に心惹かれます。
そしておそらくはポピー(芥子の花)。

彼の作品の中にはそのものずばり《ポピー》が題名となった作品もいくつかあるみたいですね。


アネモネ》1917年、個人蔵

こちらも素敵ですね。
青や紫のアネモネが持つ色彩の強さやほんの少しの毒っ気のようなものが良く出ているように思います。

彼がキャリアの初めに属していたナビ派象徴主義とも結びつけられるゴーギャンの影響を受けて結成されたものです。
しかしながら個人的には、ピエール・ボナールの作風はゴーギャンよりも、同じ象徴主義の画家であるルドンを思わせるような気がします。

上手く言えないのですが、似ていると感じるのは色彩感覚や装飾への関心でしょうか…
精神世界や幻想への眼差しという部分では、ルドンの方が圧倒的に振り切っています。
ですが、「花」というものの生命力に心を惹かれている様、そこに「何か」を見出しているかのような作品を観ていると、やはりどこか近しいものを感じるのです。


オディロン・ルドン《蝶》1910年頃、ニューヨーク近代美術館


オディロン・ルドン《グラン・ブーケ》1901年、三菱一号館美術館
展覧会「ルドン―秘密の花園」三菱一号館美術館で - 花や植物に焦点を当てた世界初の大規模展 - ファッションプレスより引用

この部分をずっと考えていてなかなか感想が書き出せませんでした。
来年はこういうところをもっとしっかり言語化できるようになりたいですね。


ジョルジュ・ルオー 聖なる芸術とモデルニテ@パナソニック汐留ミュージアム

時系列は前後するのですが、11月は(も)ドタバタでなかなか展覧会に行けていませんでした。
結果あまりにも心が荒んだため、営業の特権・直帰と半休を使い、客先から近かったルオー展に行ってきました。

公式サイトはこちらから。
ジョルジュ・ルオー 聖なる芸術とモデルニテ | 汐留ミュージアム | Panasonic

汐留ミュージアムは今回初めて行ったのですが、本当にパナソニックのフロアのすぐ上に美術館があるんですね。

もともと汐留ミュージアム自体が「ルオーギャラリー」としてコレクションを形成していることもあり、15周年の節目としてかなり気合を感じる展示会でした。
詳細は公式でかなり語られているので、私がさらに書くこともない気もしますが、時間が経ってもかなり印象深い展覧会だったので、ぽつぽつ書いていこうと思います。

顔、顔、顔の凄み

第Ⅱ章 聖顔と聖なる人物:物言わぬサバルタン(被抑圧者)という章では、ルオーが描いた人物の顔だけが展示されていました。


ジョルジュ・ルオー《ヴェロニカ》1945年頃、ポンピドゥセンター


ルオー《サラ》1956年、ジョルジュ・ルオー財団蔵

※画像はジョルジュ・ルオー 聖なる芸術とモデルニテ(パナソニック 汐留ミュージアム|品川 - お台場|東京)|EXHIBITIONS | 美術手帖より引用

太い主線、大きな眼、独特の色彩と厚いマチエールを持つ作品が同じ空間に17点。
マチエールの厚みは最近観た作品の中では随一でした。
作品リストを見ると、かなりの作品に「麻布で裏打ち」と書かれています。
厚みを支えるために裏から補強しているんですよね。

《サラ》の周りの白い装飾は、石のようにも花のようにも見えます。荘厳な印象です。

部屋に足を踏み入れた瞬間から、熱量のようなものに圧倒されてしまいました。
ルオー自身がひたすらに信仰告白として作品を作り続けそれが残されていった結果、現在の私たちがその作品を通してそれぞれに普遍的な愛や慈しみ、人間の在り方のようなものに思いを馳せることができるのだと思います。
時間と空間、そして信仰の有無を越えていくことが凄いなと…作品としての強さが素晴らしいなと思いました。

宗教画としての機能の違い(ルーベンスとの比較)

個人の感覚ではありますが、同じ宗教画でも例えばルーベンスとはまた違った印象ですね。
ルーベンスからは職人としての気質や腕の高さを感じますし、「観る者に信仰心を想起させる」ことに非常に長けているように思います。

ルオーはやはり「個人の信仰告白」が根底にあることが、また違った意味を持つ要因になっているのかなと感じました。
制作動機の違い、そして絵画自体の機能の変遷(建築の装飾からの自立)が感じられたので、比べてみて面白いなと思いました。

そしてルオーの作品も教会装飾として転用されているんですよね。
この辺りもなかなか興味深いです。


ルオーの作品とステンドグラス、相性いいだろうなと思いながら観てましたがやはり素晴らしいですね。
(またライディングもいいのが流石のパナソニックさん)


美術検定・3級合格と問題の振り返り

最後の勉強記録が8月。ひどいですね。
急遽そこから仕事が決まり、働き始めた途端余力がなくなってしまい、ここからはほとんど勉強ができませんでした。
そのため、申し込みの段階で3・2級同時受験と合格という目標を3級合格に少し落としました

結果的にそれで正解でした。
なぜなら、結構3級もぎりぎり合格だったからです…
6割が合格ラインのところを62点ですり抜けました
自己採点したときは6割切っていたため、こりゃ不合格だと諦めていました。
なので届いた合格証を見てホッとしました。嬉しかったです。


2018年の3級問題を個人的に振り返る

ここからは問題の振り返り・分析と共に自分の弱点を書いていこうと思います。
まずは基礎的な部分を美術検定の公式webページから。

3級-西洋美術・日本美術の基礎的な歴史的な流れを理解する
西洋美術・日本美術史に登場する作品や作家だけでなく、美術の動向や形式、時代背景など、歴史的な流れについても問われる。
※主な出題範囲:「この絵誰の絵?」「改訂版 西洋・日本美術史の基本」
■出題形式: マークシート問題

【2~4級マークシート問題:知識・情報の活用問題について】
これまでの美術の知識を蓄積、記憶する問題の他に、作品や資料といった美術に関する情報から総合的に判断、思考する能力を問うマークシート問題が加わります(新傾向問題の出題数は全体の約1~2割です)。模擬問題ページの「知識・情報の活用問題」でご確認下さい。
◆すべての級の出題範囲の典拠となる書籍は
「カラー版西洋美術史」、「カラー版日本美術史」です

■総問題数と西洋/日本の配分

総問題数:90問(うち5問が知識・情報の活用問題)

西洋美術からの出題:
59/90問(うち2問が知識・情報の活用問題)

日本美術からの出題:
31/90問(うち3問が知識・情報の活用問題)
※西洋美術の知識・情報の活用問題の中に1問だけ北斎関連の問題が含まれていました

■ジャンルの配分

【西洋美術】
絵画49問、彫刻5問 、建築3問、工芸1問、歴史1問(文明)

【日本美術】
絵画19問(知識問題6、屏風4、絵巻2を含む)、仏像2問、工芸4問(土器1、茶陶2、民藝運動1)、建築4問、演劇1問、インスタレーション(彫刻)1問

■時代の配分(あくまで私調べ)

【西洋美術】
古代2問
中世4問
ルネサンス10問
北方ルネサンス2問
バロック6問
ロココ3問
近代9問(新古典主義2、ロマン主義1、写実主義1、印象派4、新印象派1)
世紀末美術5問(彫刻1、象徴主義2、アール・ヌーヴォー2)
20世紀美術(-1945)9問(キュビズム3、ドイツ表現主義2、シュルレアリスム3、建築1)
1945-1980の美術7問(ポップアート1、ミニマリズム2、彫刻1、オプアート2、ビデオアート1)

【日本美術】
先史2問
白鳳時代1問
奈良時代2問
平安時代3問
鎌倉時代4問
安土桃山1問
室町時代2問
江戸時代9問
明治時代1問
大正時代2問
昭和4問

時代判定が難しい問題もちらちらありますが、だいたいこんな感じです。

また、どちらにも直近で開催されている展覧会関係のサービス問題があります
ルーベンスから2問、藤田嗣治から1問、デュシャンから2問(キュビズムも絡めると3問)、ルドンから1問、ミケランジェロから1問が出題されています。
(エミール・ガレも入れるなら2問追加ですかね)

私の得失点分析

まずざっくり西洋/日本で正答率を出してみました。

西洋美術:39/59→約66%正答
日本美術:17/31→約54%正答

パーセンテージにするとそこまで目立たないようにも感じますが、やっぱり日本美術が完全に足を引っ張っています。
どの時代・どのジャンルが苦手というより普通に物を知らなすぎて得点できていない感じです。

西洋美術に関しては世紀末美術辺りから怪しくなり、20世紀の美術は7/16という壊滅ぶりを見せています。
あと地味に近代の確実に取れていたはずのところで焦って2問ほど取りこぼしていました。
年代や技法、場所を問うような知識問題もあまり得意ではないようです。

今後の方向性

【西洋美術】
近代までは細かいところを抑える
世紀末から現代まではもう一度さらう

【日本美術】
日本史の勉強からもう一度さらう中で文化史として諸々を覚える

本当に日本史を理解しないまま大人になってしまったので恥ずかしい限りです…
西洋美術で取りこぼさないようにしつつ日本美術は基礎的なことをしっかり固めるのが良さそうです。

あとほぼ問題演習をやらなかったので、それもあんまり良くなかったなと反省しています。
時間が足りないとかはなかったのですが、やはりどの時代、どのジャンルが狙われるかはきちんと把握して勉強した方が効率良い気がします。

来年は2級を目指して頑張ります。
いずれ1級も挑戦したいですが、焦らずコツコツやっていければと思います。


デュシャン展&快慶・定慶のみほとけ展

友人から招待券をもらったので、最終日に駆け込んできました。

ハロウィン色ですね。

マルセル・デュシャンと日本の美術展

東京国立博物館 - 展示 日本の考古・特別展(平成館) 東京国立博物館・フィラデルフィア美術館交流企画特別展「マルセル・デュシャンと日本美術」

何かと賛否両論の展示だと聞いていたので正直かなり身構えて行きました。
バイアスかかったまま観るのはあんまり良くないなと思いましたけど、いろいろな記事を読んでしまったので、そこは仕方ないと割り切っています。

この批評は分かりやすかったですね。
なぜ《泉》ばかりが注目されるのか? 平芳幸浩評「マルセル・デュシャンと日本美術」展|MAGAZINE | 美術手帖
「そもそもキュレーションの際の意識から問題がある」という点から論が始まります。
《泉》で集客することと《泉》を中心に貸し出されたものをキュレーションすることは別である、という点を指摘・批判しています。

(前略) 少なくともフィラデルフィア美術館の「パッケージ」の意図を明確に汲み取って、どう視覚化すべきか考えてほしかったと思う。そうすれば、デュシャン=《泉》=「何でもありの現代美術の起源」という、現今の美術の理解にもまったく役に立たないクリシェを再生産することがどれほど無意味かと思い至ったであろうし、あの第2部「デュシャンの向こうに日本がみえる。」ももっと違ったものになったであろう。

まさに私自身がデュシャン=《泉》の意識でいたので、この辺りはかなりこの批評を読んでかなり反省しました。
他の作品はそこまで知らないけれど《泉》は観ておきたいよな、という気持ちは大いにありました。

もっと、デュシャン大喜利なんてふざけ過ぎ、みたいな感じで苛烈に批判している記事も読んだような気がするのですが、見つけられなかったのでまた見つけたら追記します。

実際に足を運んでみて思ったこと

まずは下記の作品、《1941年のボックス》とその解説から。


こういった、自分の作品や芸術に対するものをきっちり決まった形で保存していた辺りからデュシャンの人となりが何となく感じられますね。
几帳面かつマメ、そして理論に裏打ちされていることが何よりも拠り所になる人なのだろうか……などと想像しました。

他の方も感想で指摘されている方がいましたが、もう少し作品が実際に機能しているところを観たい作品が多かったのは事実ですね。
全くなかったわけではないのですが、ちょっともったいないなと思うところもありました。
個人的に観たかったのは《ドンペリニヨンの箱》。


一部分で恐縮です。
そうは言っても最終日なのか、結構な混雑でなかなか綺麗な写真が撮れなかったんですよね。

「左右異なるフィルムを覗き込んだ時の微妙な視覚のブレを感じるもの」が、ドンペリニヨンの箱の中に入っています。

自分の作品のミニチュア集《マルセル・デュシャンあるいはローズ・セラヴィの、または、による(トランクの中の箱)》然り、デュシャンは多分箱フェチというかコレクター気質があったんですかね。

ともあれこの「微妙な視覚」、せっかくならば観たかったです。
想像させる、考えさせるものだ、というのがデュシャン的意図という判断なのかもしれないですけど、滅多にない巡回展なのでチャレンジして欲しかったですね。

で、問題の《泉》。
この解説はどうなんですかね?という憤りの1枚。

これは「芸術とは目に映るかたちの美しさや心地良さのあるものである」という大雑把かつ間違った認識を無意識に鑑賞者に植えつけているとしか思えなかったです。

まず、芸術の世界ってどこだよ?問題。
この文章では想定している芸術の範囲は極端に狭すぎるように感じます。
せいぜい絵画、彫刻は入っているかどうか怪しい。
いわゆる造形芸術(≒美術)を包括してはいないような気がします。

西洋における美術という枠組みは確かに「美しく目に心地良いもの」に重きを置いていた時代が長かったとは思います。
美しさや心地良さの定義のひとつとして造形芸術が数学と結びつき、比率が整っていることが視覚の心地よさ、調和に繋がると考えられていた時代もありました。

しかしながら、デュシャン以前にもただ美しいだけではない作例はいっくらでも出てきますよね。

印象派以前に高尚、模範とされていたアカデミック美術が尊んだ神話・宗教画の中にも、戦争や聖人の死の瞬間を描いたような残酷な描写によるスペクタクル、神話やイコノロジーを隠れ蓑にしたエロスの追求など「目に心地いいだけのもの」ばかりでない作例が数多くあり、挙げていけばキリがないと思うのです。
また、戦争画といういわゆるディザスターを扱ったものもありますね。これも「目に心地いい」とは言えないでしょう。

なので、「彼は芸術の世界に目に映るかたちの美しさや心地よさのあるもの以外の価値を生み出してしまった」ということをデュシャンの独自性として提示するのは、かなり無理があったのではないでしょうか。

決して目に心地良く美しいだけではない作例はありすぎて何を引っ張るか迷いましたが、ひとまず聖書と残酷描写の例としてクラーナハを挙げます。


ルーカス・クラーナハサロメ》1535年頃、ブダペスト国立西洋美術館

洗礼者ヨハネの首を求めたヘロディアの娘サロメは悪女、femme fataleの系譜で多くの作例があります。
女性の美しさと残虐行為の取り合わせですね。
たまたま気が向いたのでクラーナハを引用しましたが、ティツィアーノやカラヴァッジォにも作例があります。
描き継がれる背景にあるのは怖いもの見たさや後ろ暗い喜び、はたまた画家の技量を示すためでしょうか。

端的に言って残酷描写だと思いますし、鑑賞者が不快感を持ち得る可能性も大いにあると思います。
なので、西洋美術(絵画)はデュシャンによって概念を破壊されたという図式の提示はあまりにも乱暴すぎると私は思います。
「生み出してしまった」というのも、いったいどこ目線なんだろう?という謎です。

ちなみに、芸術の範疇を「第七芸術」である映画まで広げたらディザスタームービーやらホラーやらもあるじゃないですか?
それを踏まえると、やはり芸術の括りがざっくり過ぎと言わざるを得ないです。
第七芸術の前の六つは?という辺りは下記を参考にしてください。
第七芸術(だいななげいじゅつ)とは - コトバンク

そしてちょっとここは自信がないですけど、デュシャンレディメイドが起こした論争は「別人が作ったものをただ選んだだけのものが芸術と言えるのか」ということであり、「美しくないものを芸術と言えるのか」というものではないような気がするんですよね…

で、この問題のある解説が《泉》とセットであることがまずデュシャン=《泉》=スキャンダラスの図式をさらに強めてしまっているわけです。

レディメイドの最初の作品に添えられているならまだ100歩譲ってまだ分からなくもないですが、よりによって《泉》なのはいただけないと思います。

とは言え《泉》に添えたくなる気持ちもなんとなく分かります。
便器が芸術、というのはレディメイドへの嫌悪感に加えて生理的な嫌悪感があり、歴史的文脈でも騒動があったために、ある意味伝説化してしまった部分があるのだと思います。

しかし展示を通して事実を伝えることと、伝説の"通説化"、もっと言えば"陳腐化"をアシストすることだけに留まることは似て非なるものなのではないだろうかということは感じました。

第二部の日本美術とデュシャンの対比についても、批判が凄いことになっていましたね。
私は日本美術に関しては周りに引かれるレベルの無知加減なのですが、それでもさすがにそりゃこじつけなのでは?という点が散見されました。

この解説も憤りで撮影したものです。

別に日本の画家やだけ注文主がいる訳じゃないですよね。

西洋には宮廷画家としてパトロンありきの画家がたくさんいるような?注文に応じて肖像画や室内の装飾を描いてませんか?教会の装飾もしてますよね?
そしてそもそも日本も西洋も工房や徒弟制で作品を作っていたケースはかなりあると思いますし、同じ公園内でルーベンス展やってますよ?と突っ込みたくなりました。

同じ主題の模倣(コピー)もなんか履き違えていると思いました。
宮廷画家はたくさんいるので、パトロンが気に入ったものをまた注文もしくは献呈っていうケースはデュシャン以前にも当然あると思います。
そして西洋において聖書や神話が繰り返しイメージソースになるのと同じように日本にも神話、伝承や物語がイメージソースになった作品が存在するじゃないですか…
例えば《洛中洛外図屏風》という決まった様式があり時代を変遷して表現や技法が変わるのと同じように、《サロメ》という様式が時代と共に変化していく、そこにデュシャンの試みは正直何の関係もないと思います。

さらに突っ込むと、版画や印刷よるコピーが作品を広範に知らしめることとなった点は丸無視なのですか?というのが非常に気になりました。

デュシャンデュシャンでちゃんと評価や魅力を出しましょう。
どうしてもキュレーション面で《泉》を中心にしたかったのなら、なぜそこに至ったのかをもう少ししっかり主張してもらいたかったです。
私の読み取り力がアレだったのかもしれませんが、とにかく突っ込みどころが多くてちょっといろいろ考えちゃいました。

あ、あと個人的にですが、デュシャン=スキャンダラス、だから今回の賛否両論もOK!っていうのも違和感ありですし逃げだと思います。
デュシャンの"伝説"におんぶに抱っこ過ぎです。

快慶・定慶のみほとけ展

東京国立博物館 - 展示 日本の考古・特別展(平成館) 特別展「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」

相変わらず仏像(東洋美術の範疇ですかね?)も詳しくないのですが、今年は割と積極的に観ていますね。
あまり知識面で成長がないので、何かいい本がないかなーと思ってはいます。

今回唯一撮影可だった重要文化財六観音菩薩像》より《聖観音菩薩立像》。

この六観音菩薩像、光背を取り外しているのでお背中が観られたんですね。
後期展示のみの試みだったようで、知らずに行きましたが結果的にラッキーでした。
ミケランジェロと理想の身体展でも感じましたが、馴染みのないジャンルこそ360°ぐるぐる観られた方が気になるポイントを見つけられるので面白いです。

光背は光背で精巧な作りなので、そちらを個別でじっくり見るのもまた楽しかったですね。

あと興味深かったのが重要文化財の《傅大士坐像および二童子立像》。


公式から引用しています。
いかにも中国な顔立ちだなーと思っていたらやはり中国の方でした。傅大士という人物の像です。

この方はお経の全てがまとめられた大蔵経が回転式の書架に納められている「輪蔵」の起源となったと言われています。
この輪蔵を回すとお経を全て読経したことと同じご利益が得られるそうです。

なんかその話、聞いたことあるしなんならやったことあるような?と思って帰ってから調べたのですが、どうやら鎌倉の長谷寺や長野の善光寺にあるようですね。
去年長谷寺で回してました。

輪蔵の前にはこの傅大士と二童子像がセットになっているそうなのですが、長谷寺はちょっと記憶が曖昧です…また行く機会があれば良く観察しようと思います。

あと書いておきたいこととしては、作品リストが親切仕様だったので仏像ビギナーには大変ありがたかったことですね。

お役目と顔が見比べられるので助かりました。

相変わらず馴染みのないジャンルは記述が薄くて自分でげんなりします。
来年はもう少し仏像や日本美術の基本的な流れを頭に入れたいです。

順番が前後しましたが11月に行ってきたルオー展の感想、そしてこちらも最終日前日に駆け込んだピエール・ボナール展の感想も年内には頑張って書こうと思います。
あとはなんとか年内にムンク展も行きたいので平日に休めるようスケジュールを組めたらいいなと思っています。
混んでると聞くとちょっと気後れしてしまいますよね…